c…。
[#地から3字上げ]四十二年十月
瞰望
わが瞰望は
ありとあらゆる悲愁《かなしみ》の外に立ちて、
東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。
七月の白き真昼、
空気の汚穢《けがれ》うち見るからにあさましく、
いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍《にぶ》く黄ばみたれ、
あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、
(新嘉坡の土の香《か》は莫大小《メリヤス》の香《か》とうち咽ぶ。)
また、青ざめし羽目板《はめいた》の安料理屋の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の内、
ただ力なく、女は頸《うなじ》かたむけて髪|梳《くしけづ》る。
(私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。)
洗濯屋《せんたくや》の下女はその時に物干の段をのぼり了り、
男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。
九段下より神田へ出づる大路《おほぢ》には
しきりに急《いそ》ぐ電車をば四十女の酔人《よひどれ》の来て止《とど》めたり。
斜《はす》かひに光りしは童貞の帽子の角《つの》か。
かかる間《ま》も収《をさ》まり難き困憊《こんぱい》はとりとめもなくうち歎《なげ》く。
その湿《し》めらへる声の中
覇王樹《サボテン》の蔭に蹲《うづく》みて日向ぼこせる洋館の病児の如く泣くもあり。
煙艸工場の煙突掃除のくろんぼが通行人を罵る如き声もあり。
白昼を按摩の小笛、
午睡のあとの倦怠《けだる》さに雪駄ものうく
白粉《おしろひ》やけの素顔して湯にゆくさまの芸妓あり。
交番に巡査の電話、
広告《ひろめ》の道化《どうけ》うち青みつつ火事場へ急《いそ》ぐごときあり。
また間《ま》の抜《ぬ》けて淫《みだ》らなる支那学生のさへづりは
氷室の看板《かんばん》かけるペンキのはこび眺むるごとく、
印刷の音の中、色赤き草花|凋《しな》え、
ほどちかき外科病院の裏手の路次の門弾《かどびき》は
げにいかがはしき病の臭気こもりたり。
(いま妄想の疲れより、ふと起りたる
薬種屋内の人殺、
下手人は色白き去勢者の母。)
何かは知らず、
人かげ絶えてただ白き裏神保町の眼路遠く、
肺病の皮膚青白き洋館の前を疲れつつ、
「刹那」の如く横ぎりし電車の胴の白色《はくしよく》は一瞬にして隠れたり。
いたづらに玩弄品《おもちや》の如き劇場の壁薄あかく、
ところどころの※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の色、曇れる、あるはやや
前へ
次へ
全48ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北原 白秋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング