神童の死
北原白秋

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)而《し》かも

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今度|為《し》て見い
−−

 去年の秋、小田原の近在に意外の大惨虐が行はれた。恐らく、この吾が人生に於ける悲劇中の悲劇であらう。而《し》かも私は、未だ曾《かつ》てかゝる神聖無垢な殺人犯を見た事が無い。清純にして無邪、真実にして玲瓏の極、のみならず、単純無比にして深刻無比。而かもまた無心無我の極にあつて、既に恐るべき悪魔的天才の萌芽を示した雋鋭《せんえい》錐《きり》の如き近代の神経と感覚。驚くべきこの犯罪はただ手もなくやつつけられた。このすばらしい犯人こそ当年五歳の男の児に外ならなかつた。
 この犯罪は更に他に戦慄すべきそれ以上の犯罪を生《う》むだ。そればかりではない、更にまた血みどろの自殺者を二人まで出して了つた。一家族の全滅である。
 それがまた、ほんの突嗟――永くて五分か十分――の出来事であつた。
 而かも相互の愛情には些《さ》の不純も無かつた。相愛してゐた。誰一人憎むべき人間は見当らなかつた。
 たゞ愛ばかりであつた。而かもこの悲劇は誰一人予期したものも無ければ、何一つ当初から計画されたものでは無かつた。
 事件は突如として起つてゐる。
 当事者は知らず、第三者から観れば、此等の犯罪者乃至自殺者は、全く人意以外の或る悪魔(それはその一家を全滅さすべくのしかかつて来た)の凄まじい翻弄に遭つたか、或は何等かの因果律に依つて、その一家のとどめを刺されて了つたとしか考へられなかつた。
 私の仮寓してゐるD寺の和尚さんは『前世からの約束事でせう。』と嗟嘆した。而してまた『因縁事だ、仕方がない。』と、苦もなく諦めて了つた。
 多くの人間は一体自分から観て一寸測り知られぬ異常な事件に打突《ぶつか》ると何も彼も因縁事だと諦めて了ふ。然し、私達はそれで決していい事はない。近代の人間はもつと理智的であり、考察的であり、研究的であらねばならない。
 私が考へたところでは、全滅した此等四人の家族の中から、一人の悪人でも、矢張り見出せなかつた。が、たゞ一つ犯人の母親がたゞ一言不用意な言葉を使用した。それが凡ての起因で、兎に角母親が不謹慎だつたといふ事はわかる。然し、それを以て母親に最上の悪を担はせる事はできない。
 ただ、茲に、私が、心
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北原 白秋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング