に容易く蘇らせる事は不可能であらう。ただ偶々《たま/\》に東京がへりの若い歯科医がその窓の障子に気まぐれな赤い硝子を入れただけのことで、何時しか屋根に薊の咲いた古い旅籠屋にはほんの商用向の旅人が殆ど泊つたけはひも見せないで立つて了ふ。ただ何時通つても白痴の久たんは青い手拭を被つたまま同じ風に同じ電信柱をかき抱き、ボンボン時計を修繕《なほ》す禿頭は硝子戸の中に俯向いたぎりチツクタツクと音をつまみ、本屋の主人《あるじ》は蒼白い顔をして空をただ凝視《みつ》めてゐる。かういふ何の物音もなく眠つた街に、住む人は因循で、ただ柔順《おとな》しく僅に Gonshan《ゴンシヤン》(良家の娘、方言)のあの情の深さうな、そして流暢な軟かみのある語韻の九州には珍しいほど京都風なのに阿蘭陀訛の熔《とろ》け込んだ夕暮のささやきばかりがなつかしい。風俗の淫《みだ》らなのにひきかへて遊女屋のひとつも残らず廃れたのは哀れふかい趣のひとつであるが、それも小さな平和な街の小さな世間体を恐るゝ――利発な心が卑怯にも人の目につき易い遊びから自然と身を退くに至つたのであらう。いまもなほ黒いダアリヤのかげから、かくれ遊びの三味線は昼もきこえて水はむかしのやうに流れてゆく。

   沖ノ端

 柳河を南に約半里ほど隔てて六騎《ロツキユ》の街沖ノ端がある。(六騎とはこの街に住む漁夫の渾名であつて、昔平家没落の砌に打ち洩らされの六騎がここへ落ちて来て初めて漁りに従事したといふ、而してその子孫が世々その業を継襲し、繁殖して今日の部落を為すに至つたのである。)畢竟は柳河の一部と見做すべきも、海に近いだけ凡ての習俗もより多く南国的な、怠惰けた規則《しまり》のない何となく投げやりなところがある。さうしてかの柳河のただ外面《うはべ》に取すまして廃れた面紗《おもぎぬ》のかげに淫らな秘密を匿してゐるのに比ぶれば、凡てが露《あらは》で、元気で、また華やかである。かの巡礼の行楽、虎列拉避けの花火、さては古めかしい水祭りの行事などおほかたこの街特殊のものであつて、張のつよい言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎は温ければ漁《すなど》り、風の吹く日は遊び、雨には寝《い》ね、空腹《ひもじ》くなれば食ひ、酒をのみては月琴を弾き、夜はただ女を抱くといふ風である。かうして宗教を遊楽に結びつけ、遊楽のなかに微かに一味の哀感を繋いでゐる。観世音は永久《とこしへ》にうらわかい町の処女に依て斎《いつ》がれ(各の町に一体づつの観世音を祭る、物日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに侍づくわかい娘たちは参詣の人にくろ豆を配り、或は小屋をかけていろいろの催をする。さうしてこの中の資格は処女に限られ、縁づいたものは籍を除かれ、新しい妙齢《としごろ》のものが代つて入る。)天火《てんび》のふる祭の晩の神前に幾つとなくかかぐる牡丹に唐獅子の大提灯は、またわかい六騎の逞しい日に焼けた腕《かひな》に献げられ、霜月親鸞上人の御正忌となれば七日七夜の法要に寺々の鐘鳴りわたり、朝の御講に詣づるとては、わかい男女夜明まへの街の溝石をからころと踏み鳴らしながら、御正忌|参《めえ》らんかん…………の淫らな小歌に浮かれて媾曳《あひびき》の楽しさを仏のまへに祈るのである。
 沖の端の写真を見る人は柳、栴檀、石榴、櫨などのかげに、而も街の真中を人工的水路の、水もひたひたと白く光つては芍薬の根を洗ひ洗濯女の手に波紋を画く夏の真昼の光景に一種のある異国的情緒の微漾を感ずるであらう。あの水祭はここで催され藍玉の俵を載せ、或は葡萄色の酒袋を香《にほひ》の滴るばかり積みかさねた小舟は毎日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であつて、高い酒倉は甍の上部を現はすのみ。かうして、私の母家はこの水の右折して、終に二条の大きな樋に極まり、渦を巻いて鹹川に落ちてゆくその袂から、是に左したるところにある。
 今は銀行となつたが、もとはやはり姻戚の阿波の藍玉屋の生鼠《なまこ》壁の隣に越太夫といふ義太夫の師匠が何時も気軽な肩肌ぬぎの婆さんと差向ひで、大きな大きな提燈を張り代へながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、桜のちらしなどをよく描いてゐた藁葺きの小店と、それと相対して同じ様な生鼠壁の旧家が二つ並んでゐる。何れも魚問屋で右が醤油を造り、左が酒を造つた。その酒屋の、私は Tonka《トンカ》 John《ジョン》(大きい坊ちやん、弟と比較していふ、阿蘭陀訛か。)である。して、隣は矢張り祖父時代に岐れた北原の分家で、後には醤油醸造を止した。
 南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲生英《たんぽぽ》の生えた旧い土蔵づくりの朽ちかゝつた屋根の下に、渋い店格子を透いて、銘酒を満たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。さうしてその上の梁の一つに紺色の可憐な
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