て祭の済んだあとから夏の哀れは日に日に深くなる。
 この騒ぎが静まれば柳河にはまたゆかしい螢の時季が来る。
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あの眼の光るのは
星か、螢か、鵜の鳥か
螢ならばお手にとろ、
お星様なら拝みませう。
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 穉《をさな》い時私はよくかういふ子守唄をきかされた。さうして恐ろしい夜の闇におびえながら、乳母の背中から手を出して例の首の赤い螢を握りしめた時私はどんなに好奇の心に顫へたであらう。実際螢は地方の名物である。馬鈴薯の花さくころ、街の小舟はまた幾つとなく矢部川の流を溯り初める。さうして甘酸ゆい燐光の息するたびに、あをあをと眼に沁みる螢籠に美しい仮寝の夢を時たまに閃めかしながら、水のまにまに夜をこめて流れ下るのを習慣とするのである。
 長い霖雨の間に果実《くだもの》の樹は孕み女のやうに重くしなだれ、ものの卵はねばねばと瀦水《たまりみづ》のむじな藻にからみつき、蛇は木にのぼり、真菰は繁りに繁る。柳河の夏はかうして凡ての心を重く暗く腐らしたあと、池の辺には鬼百合の赤い閃めきを先だてゝ、※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《や》くが如き暑熱を注ぎかける。
 日光の直射を恐れて羽蟻は飛びめぐり、溝渠には水涸れて悪臭を放ち、病犬は朝鮮|薊《あざみ》の紫の刺に後退りつつ吼え廻り、蛙は蒼白い腹を仰向けて死に、泥臭い鮒のあたまは苦しそうに泡を立てはじめる。七八月の炎熱はかうして平原の到るところの街々に激しい流行病《はやりやまい》を仲介し、日ごとに夕焼の赤い反照を浴びせかけるのである。
 この時、海に最も近い沖ノ端の漁師原《れふしばら》には男も女も半裸体のまま紅い西瓜をむさぼり、石炭酸の強い異臭の中に昼は寝ね、夜は病魔退散のまじなひとして廃れた街の中、或は堀の柳のかげに BANKO《バンコ》(縁台)を持ち出しては盛んに花火を揚げる。さうして朽ちかかつた家々のランプのかげから、死に瀕した虎刺拉《これら》患者は恐ろしさうに蒲団を匍ひいだし[#「匍ひいだし」は底本では「匍ひいたし」]、ただぢつと薄あかりの中に色変へてゆく五色花火のしたたりに疲れた瞳を集める。
 焼酎の不摂生に人々の胃を犯すのもこの時である。犬殺しが歩るき、巫女《みこ》が酒倉に見えるのもこの時である。さうして雨乞の思ひ思ひに白粉をつけ、紅い隈どりを凝らした仮装行列の日に日に幾隊となく続いてゆくのもこの時である。さはいへまた久留米絣をつけ新しい手籠を擁《かか》へた菱の実売りの娘の、なつかしい「菱シヤンヲウ」の呼声をきくのもこの時である。

 九月に入つて登記所の庭に黄色い鶏頭の花が咲くやうになつてもまだ虎刺拉《コレラ》は止む気色もない。若い町の弁護士が忙しさうに粗末な硝子戸を出入りし、蒼白い薬種屋の娘の乱行の漸く人の噂に上るやうになれば秋はもう青い渋柿を搗く酒屋の杵の音にも新しい匂の爽かさを忍ばせる。
 祇園会が了り秋もふけて、線香を乾かす家、からし油を搾る店、パラピン蝋燭を造る娘、提燈の絵を描く義太夫の師匠、ひとり飴形屋(飴形は飴の一種である、柳河特殊のもの)の二階に取り残された旅役者の女房、すべてがしんみりとした気分に物の哀れを思ひ知る十月の末には、先づ秋祭の準備として柳河のあらゆる溝渠はあらゆる市民の手に依て、一旦水門の所を閉され、水は干され、魚は掬はれ、腥ぐさい水草は取り除かれ、溝《どぶ》どろは綺麗に浚ひ尽くされる。この「水落ち」の楽しさは町の子供の何にも代へ難い季節の華である。さうしてこの一騒ぎのあとから、また久濶《ひさし》ぶりに清らかな水は廃市に注ぎ入り、楽しい祭の前触が異様な道化の服装をして、喇叭を鳴らし拍子木を打ちつつ、明日の芝居の芸題を面白をかしく披露しながら町から町へと巡り歩く。
 祭は町から町へ日を異にして準備される、さうして彼我の家庭を挙げて往来しては一夕の愉快なる団欒に美しい懇親の情を交すのである。加之、識る人も識らぬ人も酔うては無礼の風俗をかしく、朱欒《ざぼん》の実のかげに幼児と独楽《こま》を廻はし、戸ごとに酒をたづねては浮かれ歩るく。祭のあとの寂しさはまた格別である。野は火のやうな櫨紅葉に百舌がただ啼きしきるばかり、何処からともなく漂浪《さすら》うて来た傀儡師《くぐつまはし》の肩の上に、生白い華魁《おゐらん》の首が、カツクカツクと眉を振る物凄さも、何時の間にか人々の記憶から掻き消されるやうに消え失せて、寂しい寂しい冬が来る。


 要するに柳河は廃市である。とある街の辻に古くから立つてゐる円筒状の黒い広告塔に、折々、西洋奇術の貼札が紅いへらへら踊の怪しい景気をつけるほかには、よし今のやうに、アセチリン瓦斯を点け、新たに電気燈《でんき》をひいて見たところで、格別、これはという変化も凡ての沈滞から美しい手品を見せるやう
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