水郷柳河
北原白秋
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)溝渠《ほりわり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)郷里|柳河《やながは》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《や》く
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
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私の郷里|柳河《やながは》は水郷である。さうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ溝渠《ほりわり》のにほひには日に日に廃れてゆく旧い封建時代の白壁が今なほ懐かしい影を映す。肥後路より、或は久留米路より、或は佐賀より筑後川の流を越えて、わが街に入り来る旅びとはその周囲の大平野に分岐して、遠く近く瓏銀の光を放つてゐる幾多の人工的河水を眼にするであらう。さうして歩むにつれて、その水面の随所に、菱の葉、蓮、真菰、河骨、或は赤褐黄緑その他様々の浮藻の強烈な更紗模様のなかに微かに淡紫のウオタアヒヤシンスの花を見出すであらう。水は清らかに流れて廃市に入り、廃れはてた Noskai《ノスカイ》屋(遊女屋)の人もなき厨の下を流れ、洗濯女の白い洒布に注ぎ、水門に堰かれては、三味線の音の緩む昼すぎを小料理屋の黒いダアリヤの花に歎き、酒造る水となり、汲水場《くみづ》に立つ湯上りの素肌しなやかな肺病娘の唇を嗽ぎ、気の弱い鶯の毛に擾され、そうして夜は観音講のなつかしい提灯の灯をちらつかせながら、樋《ゐび》を隔てて海近き沖《おき》ノ端《はた》の鹹川《しほかは》に落ちてゆく。静かな幾多の溝渠はかうして昔のまま白壁に寂しく光り、たまたま芝居見の水路となり、蛇を奔らせ、変化多き少年の秘密を育む。水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である。
折々の季節につれて四辺の風物も改まる。短い冬の間にも見る影もなく汚れ果てた田や畑に、苅株のみが鋤きかへされたまま色もなく乾き尽くし、羽に白い斑紋を持つた怪しげな高麗烏《かうげがらす》(この地方特殊の鳥)のみが廃れた寺院の屋根に鳴き叫ぶ、さうして青い股引をつけた櫨《はじ》の実採りの男が静かに暮れてゆく卵いろの梢を眺めては無言に手を動かしてゐる外には、展望の曠い平野丈に何らの見るべき変化もなく、凡てが陰鬱な光に被はれる。柳河の街の子供はかういう時幽かなシユブタ(方言|鮑《はえ》の一種)の腹の閃きにも話にきく生胆取《いきぎもとり》の青い眼つきを思ひ出し、海辺の黒猫はほゝけ果てた白い穂の限りもなく戦いでゐる枯葦原の中に、ぢつと蹲つたまゝ、過ぎゆく冬の囁きに昼もなほ耳かたむけて死ぬるであらう。
いづれにもまして春の季節の長いといふ事はまた此地方を限りなく悲しいものに思はせる。麦がのび、見わたす限りの平野に黄ろい菜の花の毛氈が柔かな軟風に乗り初めるころ、まだ見ぬ幸を求むるためにうらわかい町の娘の一群は笈に身を窶し、哀れな巡礼の姿となつて、初めて西国三十三番の札所を旅して歩く。(巡礼に出る習慣は別に宗教上の深い信仰からでもなく、単にお嫁入りの資格としてどんな良家の娘にも必要であつた。)その留守の間にも水車は長閑かに廻り、町端れの飾屋の爺は大きな鼈甲縁の眼鏡をかけて、怪しい金象眼の愁にチンタンと鎚を鳴らし、片思の薄葉鉄《ブリキ》職人はぢりぢりと赤い封蝋を溶かし、黄色い支那服の商人は生温い挨拶の言葉をかけて戸毎を覗き初める。春も半ばとなつて菜の花もちりかかるころには街道のところどころに木蝋を平準《なら》して干す畑が蒼白く光り、さうして狐憑《きつねつき》の女が他愛もなく狂ひ出し、野の隅には粗末な蓆張りの円天井が作られる。その芝居小屋のかげをゆく馬車の喇叭のなつかしさよ。
さはいへ大麦の花が咲き、からしの花も実となる晩春の名残惜しさは、青くさい芥子の萼《うてな》や新しい蚕豆《そらまめ》の香ひにいつしかとまたまぎれてゆく。
まだ夏には早五月の水路に札の葉を飾りを取りつけ初めた大きな三神丸《さんじんまる》の一部をふと学校がへりに発見した沖の端の子供の喜びは何に譬へやう。艫の方の化粧部屋は蓆で張られ、昔ながらの廃れかけた舟舞台には桜の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾は彩色も褪せはてたものではあるが、水天宮の祭日ともなれば粋な町内の若い衆が紺の半被《はつぴ》に棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替へ、日を替ゆるたびに歌舞伎の芸題もとり替へて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歓を尽くして別れるものの、何処かに頽廃の趣が見え
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