《みとせ》のち、乳母はみまかり、
そのごともここに埋《う》もれぬ。
さなり、はや古びし墓に。
あかあかと夕日さす野に、
南瓜花《かぼちやばな》をかしき見れば
いまもはた涙ながるる。
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生の芽生
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石竹の思ひ出
なにゆゑに人々《ひとびと》の笑ひしか。
われは知らず、
え知る筈なし、
そは稚《いとけな》き三歳《さんさい》のむかしなれば。
暑き日なりき。
物音もなき夏の日のあかるき眞晝なりき。
息ぐるしく、珍らしく、何事か意味ありげなる。
誰《た》が家か、われは知らず。
われはただ老爺《ヂイヤン》の張れる黄色かりし提燈《ちやうちん》を知る。
目のわろき老婆《バン》の土間にて割《さ》きつつある
青き液《しる》出す小さなる貝類のにほひを知る。
わが惱ましき晝寢の夢よりさめたるとき、
ふくらなる或る女の兩手は
彈機《ばね》のごとも慌《あは》てたる熱《あつ》き力もて
かき抱き、光れる掾側へと連れゆきぬ。
花ありき、赤き小さき花、石竹の花。
無邪氣なる放尿…………
幼兒は靜こころなく凝視《みつ》めつつあり。
赤き赤き石竹の花は痛《いた》きまでその瞳にうつり、
何ものか、背後《うしろ》には擽《こそば》ゆし、繪艸紙の古ぼけし手觸《てざはり》にや、
なにごとの可笑《をかし》さぞ。
數多《あまた》の若き漁夫《ロツキユ》と着物《きもの》つけぬ女との集まりて、
珍らしく、恐ろしきもの、
そを見むと無益にも靈《たまし》動かす。
柔らかき乳房もて頭《かうべ》を厭され、
幼兒は怪しげなる何物をか感じたり。
何時《いつ》までも何時までも、五月蠅《うるさ》く、なつかしく、やるせなく、
身をすりつけて女は呼吸《いき》す、
その汗の臭《にほひ》の強さ、くるしさ、せつなさ、
恐ろしき何やらむ背後《うしろ》にぞ居れ。
なにゆゑに人々《ひと/″\》の笑ひつる、
われは知らず、
え知る筈なし、
そは稚き三歳の日のむかしなれば。
暑き日なりき、
物音もなき鹹河《しほがは》の傍《そば》のあかるき眞晝なりき。
蒸すが如き幼年の恐怖《おそれ》より
尿《いばり》しつつ…………われのただ凝視《みつ》めてありし
赤き花、小さき花、目に痛《いた》き石竹の花。
幽靈
覺醒《めさ》むれば
しんしんと水の音《ね》近し、
わが乳母の心音《しんのん》かそは
夜《よ》は暗く……耳鳴す……青葱畑……
いづこにか夜芝居の篠《しの》きこゆ、本釣《ほんつり》きこゆ、
恐ろしき道すがらその肩にかぢりつき、
手をのべてからめども、首すぢは『お岩』のごとく、
髪のけの青かりしかな、韮《にら》の香の噎《むせび》さへしつ。
月もなく、星もなし、
然《しか》れども或るものは戲《たはむ》[#底本は「たわむれ」と誤植、172−5]れのごと
黄なる毛のにほひして走り過ぐ――
わが乳母の魂《たま》ぎりし聲、
ゆくりなく、眼《め》に入りし
蒼き火の光なき幻影《まぼろし》。
銀色の憂鬱に、夜は青く輝《かがや》きわたり、
しんしんと水の音冴えつ。
倒れしは、わが乳母か、息絶えしその背《せ》より
ふと見れば
幽靈は冷《ひや》やかにほほゑみぬ。――あなやそは乳母。
願人坊
雪のふる夜《よ》の倉見れば
願人坊《ぐわんにんばう》を思ひ出す。
願人坊は赤頭巾《あかづきん》、
目も鼻もなく、眞白な
のつぺらぽんの赤頭巾。
「ちよぼくれちよんがら、そもそもわつちが
のつぺらぽんのすつぺらぽん、すつぺらぽんののつぺらぽんの、
坊主になつたる所謂因縁《いはくいんねん》きいてもくんねへ、
しかも十四のその春はじめて」…………
踊《をど》り出したる惡玉《あくだま》が
願人坊の赤頭巾。
かの雪の夜《よ》の酒宴《さかもり》に、
我《わ》が顫へしは恐ろしきあるものの面《かほ》、「色のいの字の」
白き道化がひと踊《をどり》…………
乳母の背なかに目を伏せて
恐れながらにさし覗《のぞ》き、
淫《みだ》らがましき身振《みぶり》をば幽かにこころ疑《うたが》ひぬ、
なんとなけれどおもしろく。
「お松さんにお竹さん、椎葺《しひたけ》さんに干瓢《かんぺう》さんと…………手練手管《てれんてくだ》」が何ごとか知らぬその日の赤頭巾、
惡玉踊《あくだまをどり》の變化《へんげ》もの。
雪のふる夜《よ》の倉見れば
願人坊を思ひ出す。
雪のふる夜《よ》に、戲《おど》けしは
酒屋男《さかやをとこ》の尻かろの踊り上手のそれならで、
最《もつと》も醜《みにく》く美しく饑《う》ゑてひそめる仇敵《あだがたき》、
おのが身の淫《たはれ》ごころと知るや知らずや。
あかんぼ
昨日《きのふ》うまれたあかんぼを、
その眼を、指を、ちんぼこを、
眞夏《まなつ》眞晝《まひる》の醜さに
憎《にく》さも憎く睨む時。
何《なに》かうしろに來る音に
はつと恐れてわななきぬ。
『そのあかんぼを食べたし。』と
黒い女猫《めねこ》がそつと寄る。
ロンドン
夏の日向《ひなた》にしをれゆく
ロンドン草《さう》の花見れば
暑き砂地にはねかへる
蟲のさけびの厭はしや。
かつはさみしき唇《くちびる》に
カステラの粉をあつるとき、
ひとりとくとく乳《ちち》ねぶる
あかんぼの頭《あたま》にくらしや。
夏の日向にしをれゆく
ロンドン草よ、わがうれひ。
[#ここから4字下げ]
松葉牡丹のことをわが地方にてロンドンと呼びならはしぬ。その韻いまもわすれず。
[#ここで字下げ終わり]
接吻
臭《にほひ》のふかき女きて
身體《からだ》も熱《あつ》くすりよりぬ。
そのときそばの車百合
赤く逆上《のぼ》せて、きらきらと
蜻蛉《とんぼ》動かず、風吹かず。
後退《あとし》ざりしつつ恐るれば
汗ばみし手はまた強く
つと抱きあげて接吻《くちづ》けぬ。
くるしさ、つらさ、なつかしさ、
草は萎れて、きりぎりす
暑き夕日にはねかへる。
汽車のにほひ
汽車が來た、――釣鐘草《つりがねさう》のそばに、
何時《いつ》も羽蟻《はあり》が飛び、
黄色《きいろ》い日があたる。
JOHN は母上と人力車《じんりき》に。――
頭《あたま》のうへのシグナルがカタリ[#「カタリ」に傍点]と下る。面白いな。
もうと啼く牛のこゑ、
停車場《ステーシヨン》の方に白い夏服《なつふく》が光り、
激しい大麥の臭《にほひ》のなかを、
汽車が來る…………眞黒な鐵《てつ》の汗《あせ》の
靜まらぬとどろき、とどろき、とどろき…………
汽車が奔《はし》る…………眞面目《まじめ》な兩《ふたつ》の眼玉から
向日葵《ひぐるま》見たいに夕日を照りかへし、
焦《ぢ》れつたいやうな、泣くやうな、變に熱《あつ》い噎《むせび》を吹きつける。
油じみた皮膚のお化《ばけ》の
西洋のとどろき、とどろき、とどろき、とどろき…………
汽車が消ゆる…………ほつと息をして
釣鐘草が汗をたらし、
生れ變つたやうな日光のなかに、
停《とま》つた人力車が動き出すと、
赤い手をしたシグナルがカタリ[#「カタリ」に傍点]と上る。面白いな。
どんぐり
どんぐりの實《み》の夜《よ》もすがら
落ちて音するしをらしさ、
君が乳房に耳あてて
一夜《ひとよ》ねむればかの池に。
どんぐりの實はかずしれず
水の面《おもて》に唇《くち》つけぬ
お銀小銀のはなしより
どんぐりの實はわがゆめに。
どんぐりの實のおのづから
熟《う》れてなげくや、めづらしく、
祭物見《まつりものみ》の前の夜《よ》を
二人ねむれば、その胸に。
どんぐりの實のなつかしく
落ちてなげけば薄《うす》あかり、
かをる寢息《ねいき》のひまびまや、
どんぐりの實は池水に。
赤い木太刀
赤い木太刀をかつぎつつ、
JOHN はしくしく泣いてゆく。
水天宮のお祭《まつり》が
なぜにこんなにかなしかろ。
悲《かな》しいことはなけれども、
行儀ただしく、人なみに
御輿《みこし》のあとに從へば、
金《きん》の小鳥のヒラヒラが
なぜか、こころをそそのかす。
街《まち》は五月の入日どき、
覗《のぞ》き眼鏡《めがね》がとりどりに
店をひろぐるそのなかを、
赤い木太刀をかつぎつつ、
JOHN はしくしく泣いてゆく。
糸車
糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
金《きん》と赤との南瓜《たうなす》のふたつ轉《ころ》がる板の間《ま》に、
「共同醫館」の板の間《ま》に、
ひとり坐りし留守番《るすばん》のその媼《おうな》こそさみしけれ。
耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、
微《ほの》かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
硝子戸棚に白骨《はつこつ》のひとり立てるも珍《めづ》らかに、
水路《すゐろ》のほとり月光の斜《ななめ》に射《さ》すもしをらしや。
糸車、糸車、しづかに默《もだ》す手の紡《つむ》ぎ、
その物思《ものおもひ》やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
水面
ゆふべとなればちりかかる
柳の花粉《こな》のうすあかり、
そのかげに透く水面《みのも》こそ
けふも Ongo [#「Ongo」に「*」の著者註]の眼つきすれ。
またなく病《や》めるおももちの
君がこころにあまゆれば、
渦のひとつは色|變《か》えて
生膽取《いきぎもとり》の眼を見せつ。
恐れてまたも凝視《みつ》むれば
銀の Benjo [#「Benjo」に「*」の著者註]のいろとなり、
ハーモニカとなり、櫂となり、
またもかの兒の眼《め》となりぬ。
柳の花のちりかかる
樋《ゐび》のほとりのやんま釣り、
ひとりつかれて水面《みづのも》に
薄くあまゆるわがこころ。
[#ここから2字下げ]
Ongo. 良家の娘、小さき令孃。柳河語。
Benjo. 肌薄く、紅く青き銀光を放つ魚、小さし。同上。
[#ここで字下げ終わり]
毛蟲
毛蟲、毛蟲、青い毛蟲、
そなたは何處《どこ》へ匍ふてゆく、
夏の日くれの磨硝子《すりがらす》
薄く曇れる冷《つめ》たさに
幽《かすか》に幽《かすか》にその腹部《はら》の透いて傳《つた》はる美しさ。
外の光のさみしいか、
内の小笛のこひしいか、
毛蟲、毛蟲、青い毛蟲、
そなたはひとり何處へゆく。
かりそめのなやみ
ゆく春のかりそめのなやみゆゑ
びいどろの薄き罎に
肉桂水《につけい》を入れて欲《ほ》し、
カステラの欲し。
鉛の汽車の玩具《おもちや》は
紫の目に痛《いた》し。
銀紙《ぎんがみ》を透かせば黒し、
わが乳母の乳《ちち》くびも汚《きた》なし。
硝子戸に日の射《さ》せば
ザボンの白い花ちりかかり、
なんとなう温かうして心|空腹《ひも》じ。
カステラをふくみつつ、その黄いろなる、
われはかの君をぞ思ふ、
柔かき手のひらのなつかし。
小《ちい》さきその肩のなつかし。
かかる日に、かかる日に、
からし菜の果《み》をとりて泣く人の
その肩に手を置きて、
手を置きて、ただ何となく寄り添ひてまし。
道ぐさ
芝くさのにほひに
夏の日光り、
幼年のこころに
*Wasiwasi 啼く。
伴《つれ》にはぐれて
うつとりと、
雪駄ひきずる
眞晝どき。
汗ばみし手に
羽蟲きて、
赤き腹部《はら》すり、また、消ゆる
藍色の眼《め》の美くしや。
つかず離《はな》れぬ
その恐怖《おそれ》、
たらたら坂を
またのぼる。
芝くさのにほひに
夏の日光り、
幼年のこころに
Wasiwasi 啼く。
* 油蝉の方言
螢
夏の日なかのヂキタリス、
釣鐘状《つりがねがた》に汗つけて
光るこころもいとほしや。
またその陰影《かげ》にひそみゆく
螢のむしのしをらしや。
そなたの首は骨牌《トランプ》の
赤いヂヤツクの帽子かな、
光るともなきその尻は
感冒《かぜ》のここちにほの青し、
しをれはてたる幽靈か。
ほんに内氣《うちき》な螢むし、
嗅《か》げば不思議にむしあつく、
甘い藥液《くすり》の香《か》も濕《しめ》る、
晝のつかれのしをらしや。
白い日なかのヂキタリス。
青いと
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