金《メツキ》に、
薄青き光線の暈《かさ》かけて慄《わなな》く夜なり。
放埓《はうらつ》のわが悔に、初戀の清き傷手《いたで》に、
秘密おほき少年のフアンタジヤに。
霜はふる。
ややにふる、
來るべき冬の日の幻滅《ヂスイリユジヨン》…………
時は逝く
時は逝く。赤き蒸汽の船腹《ふなばら》の過ぎゆくごとく、
※[#「轂」の「車」に代えて「米」、120−3]倉《こくぐら》の夕日のほめき、
黒猫の美くしき耳鳴《みみなり》のごと、
時は逝く。何時しらず、柔《やはらか》かに陰影《かげ》してぞゆく。
時は逝く。赤き蒸汽の船腹《ふなばら》の過ぎゆくごとく。
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おもひで
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紅き實
日もしらず。
ところもしらず。
美くしう稚兒《ちご》めくひとと
匍ひ寄りて、
桃か、IKURI か、
朱《しゆ》の盆に盛りつとまでを。
餘《よ》は知らず、
また名もしらず。
夢なりや。――
さあれ、おぼろに
朱の盆に盛りつとまでを、
わが見しは
紅き實なりき。
註。Ikuri の果は巴丹杏より稍小さく、杏よりはすこしく大なり、その色血のごとし。
車上
春の夜《よ》なりき。さくらびと
月の大路《おほぢ》へ戸を出でぬ。
燈《ひ》あかき街《まち》の少女らは
車かこめり、
川のふち
霧美くしうそぞろぎぬ。
美《よ》き人なりき、花ごろも
かろく被《かつ》ぎて、――母ぎみの
乳の香《か》も薫《く》ゆり、――薔薇《ばら》のごと
われをつつみぬ。
ひとあまた、
あとの車もはなやぎぬ。
いづれ、月夜の花ぐるま、
憂《う》き里さりて、野も越えて、
常《とこ》うるはしき追憶《おもひで》の
國へかゆきし。――
稚子《ちご》なれば
はやも眠りぬ、その膝に。
身熱
母なりき、
われかき抱き、
ザボンちる薄き陰影《かげ》より
のびあがり、泣きて透《す》かしつ、
『見よ、乳母の棺《ひつぎ》は往《ゆ》く。』と。
時に白日《ひる》、
大路《おほぢ》青ずみ、
白き人|列《つら》なし去んぬ。
刹那《せつな》、また、火なす身熱、
なべて世は日さへ爛《たゞ》れき。
病むごとに、
母は歎きね。
『身熱に汝《な》は乳母焦がし、
また、JOHN よ、母を。』と。――今も
われ青む。かかる恐怖《おそれ》に。
梨
ひと日なり、夏の朝凉《あさすゞ》、
濁酒《にごりざけ》賣る家《や》の爺《をぢ》と
その爺《をぢ》の車に乘りて、
市場へと。――途《みち》にねむりぬ。
山の街《まち》、――珍《めづ》ら物見の
子ごころも夢にわすれぬ。
さなり、また、玉名《たまな》少女が
ゆきずりの笑《ゑみ》も知らじな。
その歸さ、木々のみどりに
眼醒《めさ》むれば、鶯啼けり。
山路なり、ふと掌《て》に見しは
梨なりき。清《すゞ》しかりし日。
鷄頭
秋の日は赤く照らせり。
誰が墓ぞ。風の光に
鷄頭の黄なるがあまた
咲ける見てけふも野に立つ。
母ありき、髪のほつれに
日も照りき。み手にひかれて
かかる日に、かかる野末を、
泣き濡れて歩みたりけむ。
ものゆかし、墓の鷄頭。
さきの世《よ》か、うつし世にてか、
かかる人ありしを見ずや、
われひとり涙ながれぬ。
椎の花
木の花はほのかにちりぬ。
日もゆふべ、椎の片岡、
影さむみ、薄ら光に
君泣きぬ、われもすがりぬ。
髪の香か、目見《まみ》のうるみか、
衣《きぬ》そよぎ、裾にほそぼそ、
虫啼きぬ、――かかるうれひに。
ああ、かくて、君よいくとき、
かく縋《すが》り、かくや泣きけむ。
そのかみか、いまか、うつつか、
さて知らじ、さきの世のゆめ。
男の顏
ふと見てし男の顏は
夜目《よめ》ながら赤く笑ひき。
そことなく、囃子《はやし》きこえて
水祭《みづまつり》ふけし夜のほど、
乳母の背《せ》にわれねむりつつ、
見るとなく彼を憎みぬ。
その顏は街《まち》の灯かげを、
あかあかと歩みつつあり。
乳母もさは添ひてかたりぬ。
かくて世《よ》にわれただひとり。
大太皷《おほだいこ》人は拊《う》ちつけ
後《うしろ》より絶えず戲《おど》けて
嘲りぬ。――われは泣きにき。
水ヒアシンス
月しろか、いな、さにあらじ。
薄ら日か、いな、さにあらじ。
あはれ、その仄《ほの》のにほひの
などもさはいまも身に沁む。
さなり、そは薄き香《か》のゆめ。
ほのかなる暮の汀《みぎは》を、
われはまた君が背《せ》に寢て、
なにうたひ、なにかかたりし。
そも知らね、なべてをさなく
忘られし日にはあれども、
われは知る、二人《ふたり》溺れて
ふと見し、水ヒアシンスの花。
鵞鳥と桃
なにごとのありしか知らず、
人さはに立ちてながめき。
われもまた色あかき桃
掌《て》にしつつ、なかにまじりぬ。
河口に今日しはじめて
小蒸汽の見えつるといふ。
朝明《あさあけ》の霧にむせびし
西國《にしぐに》の新しき香《か》よ。
そが鈍《にぶ》き笛のもとより、
鵞の鳥は鳴きてのぼりぬ。
ひとむれのその鳴きごゑよ、
しらしらとわれに寄り來つ。
そはかなし、『見も知らぬ兒よ、
汝《な》が紅き實《み》を欲し。』といふ。
いひしらぬそのくちをしさ、
逃げまどひ、泣きてかへりぬ。
母上に賜《た》びし桃の實、
われひとり食《たう》べむものを。
胡瓜
そのにほひなどか忘れむ。
ほのじろき胡瓜《きうり》の花よ。
そのひと日、かげにかくれて
わが見てし胡瓜の花よ。
かの日には歌舞伎見るとて
父上にせがみまつりき。
そがために小さき兄弟《はらから》
日をひと日家を追はれき。
弟は水の邊《へ》に立ち、
聲あげて泣きもいでしか。
われははた胡瓜の棚に
身をひそめすすり泣きしき。
かくしても幼き涙
頬にくゆるしばしがほどぞ、
珍《めづ》らなる新らしき香に
うち噎《むせ》びなべて忘れつ。
さあれ、かの痛《つ》らき父の眼《め》
たまたまに思ひいでつつ、
日をひと日、泣きも疲れて
數へ見てし胡瓜の花よ。
源平將棊
春の夜の源平將棊、
あはれなほ思ひぞ出づる。
ただ一夜《ひとよ》あてにをさなく
ほのかにも見てしばかりに。
その君はわれとおなじく
かぶろ髪、ゆめの眸《まみ》して
紅《くれなゐ》の玉をとらしき。
われは白、かくて對《むか》ひぬ。
春の夜の源平將棊、
そののちは露だにあはず、
名も知らず、われも長じて
二十歳《はたとせ》の春にあへれど。
などかまた忘れはつべき。
紅のとらす玉ゆゑ、
いとけなく勝たせまつりし
そのかみの春の夜のゆめ。
朝
日は皐月《さつき》、
小野のしら花、
鈴状《すゞなり》に咲きて夜あけぬ。
靜《しずか》なり、ひとり坐れば。
靜なり、ひとり坐れば。――
くるる戸の
きしるにほひも。
君は早や、
麥の青みを――
鈴鳴らし朝の祷《いの》りに、――
白《しら》ぎぬに摺りもこそゆけ、
白ぎぬに摺りもこそゆけ、
野の寺へ。――
かくも思ひぬ。
ああしばし、
星のうすれに、
髪なぶる風のなよびも、
水鳥のほののしらべも、
水鳥のほののしらべも、
われききぬ。
きみがこころも。
人生
野の皐月《さつき》、空ものどかに、
白き雲ゆるかにわたり、
畑にはからし花咲き、
雲雀また妙《たへ》にうかびぬ。
南向く白き酒倉、
そがもとにわれはその日も、
幟《のぼり》立つ野の末ながめ
ゆめのごとむきし佛手柑《ぶしゆかん》。
かすかにも囃子《はやし》はきこえ、
笛まじり風もにほへど、
父のまたゆるしたまはぬ
歌舞伎見《かぶきみ》をなにとかすべき。
かくてまたすすり泣きつつ、
實をひとり吸ひもてゆけば
酸《す》ゆかりき。あはれ、それより
われ世をば厭ひそめにき。
青き甕
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青き甕にはよくコレラ患者の死骸を入れたり、これらを幾個となく擔ぎゆきし日のいかに恐ろしかりしよ、七歳の夏なりけむ。
[#ここで字下げ終わり]
『青甕《あをがめ》ぞ。』――街衢《ちまた》に聲す。
大道に人かげ絶えて
早や七日、溝に血も饐《す》え、
惡蟲の羽風の熱さ。
日も眞夏、火の天《そら》爛《ただ》れ、
雲|燥《い》りぬ。――大家《たいけ》の店に、
人々は墓なる恐怖《おそれ》。
香《かう》くすべ、青う寢そべり、
煙管《きせる》とる肱もたゆげに、
蛇のごと眼のみ光りぬ。
『青甕《あをがめ》ぞ。』――今こそ家族《やから》、
『聲す。』『聽け。』『血糊《ちのり》の足音《あのと》。』
『何もなし。』――やがて寂寞。――
秒ならず、荷擔夫《にかつぎ》一人、
次に甕《かめ》、(これこそ死骸《むくろ》、)
また男。――がらす戸透かし
つと映る刹那――眞青《まさを》に
甕なるが我を睨みぬ。
父なりき。――(父は座《ざ》にあり。)――
ひとつ眼の呪咀《のろひ》の光。
『青甕《あをがめ》ぞ。』――日もこそ青め、
言葉なし。――蛇のとぐろを
香《かう》匐《は》ひぬ、苦熱の息吹《いぶき》。
また過ぎぬ、ひひら笑ひぬ。
母なりき。――(母も座《ざ》にあり。)――
がらす戸の冷《つめ》たき皺《しわ》み。
やがてまた一列、――あなや、
我なりき。――青き小甕に、
欷歔《さぐ》りつつ黒き血吐くと。
刹那見ぬ、地獄の恐怖《おそれ》。
赤足袋
肩越しにうかゞふ子らに、
沙彌《しやみ》が眼《め》はなべて光りぬ。――
日の一時、水無月まなか、
大なる鐃※[#「金+拔の旁」、第3水準1−93−6、154−5]《ねうはち》ひびき、
亡者《まうじや》めく人びとあまた
香爐焚き、棺衣《がけむく》めぐり、
群《む》れつどひ、兩手《もろて》あはせぬ。
長老は拂子《ほつす》しづしづ
誦經《ずきやう》いま、咽び音《ね》まじり、
廣澄《ひろす》みぬ。――七歳《ななつ》の我は
興なさに、此時膝に
眼うつせば、紗《しや》の服がくれ、
だぶだぶの赤足袋。――をかし、
髯づらに涙ながれき。
『南無阿彌陀。』―― 沙彌《しやみ》が眼光り、
拂子《ほつす》ゆれ、風湧く刹那、
一齊に念佛起り、
老若も、男女も、子らも、
赤足袋も、咽《むせ》ぶと見れば、
層高《きはだか》の銅拍子《どうびやうし》、――あなや、
われ堪へず、――笑ひくづれき。
挨拶
祭《まつり》の日、美くしき人も來ましき。
稚き女の友もあつまりぬ。
あるは、また、馬に騎《の》りて、
物むつかしき武士《さむらひ》の爺《をぢ》も來ましき。
樂しかる祭なれども、
われはただつねにおそれぬ。
祭《まつり》の日、むつかしき言《こと》のかずかず
挨拶《あひしら》ひ、父は笑《ゑ》ましき、
禿頭《はげあたま》するするとかきあげながら――
われもまた爲《せ》ではかなはじ、かのごとも大人《おとな》とならば。
樂しかる祭《まつり》なれども、
われはただつねにおそれぬ。
あかき林檎
いと紅き林檎の實をば
明日《あす》こそはあたへむといふ。
さはあれど、女の友は
何時《いつ》もそを持ちてなかりき。
いと紅き林檎の實をば
明日こそはあたへむといふ。
恐怖
乳母なれどわれは恐れき。
夜も晝も『和子よ。』と欷歔《さぐ》り、
『骨だちぬ。』われを『死なば。』と、
母よりも激しき愛に、
抱擁《だきし》めつ。――『かなし。』とばかり。
乳母なれど、せちに恐れき。
執着《しふちやく》よ、臨終《いまは》の刹那、
涙なき老《おい》の眼《まなこ》は、
母よりも激しき愛に
我みつめ――青く白みき。
乳母なれど、いまも恐れぬ。
疑問《うたがひ》に悲しみ亂れ、
わが泣けば馴寄《なよ》り水|如《な》し、
『吾子《あこ》よ、吾《あ》ぞ。」(夜は二時ならし。)
『汝《な》が母。』と――青き顏しぬ。
乳母の墓
あかあかと夕日てらしぬ。
そのなかに乳母と童と
をかしげに墓をながめぬ。
その墓はなほ新らしく、
畑中の南瓜の花に
もの甘くしめりにほひき。
乳母はいふ、『こはわが墓』と、
『われ死なばここに彫りたる
おのが名の下闇《したやみ》にこそ。』
三歳
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