みて
熟《う》れし木の果は
やはらかき吐息《といき》もて地にぞ落ちたる。
またひとつ…………そよとだに風も吹かねど。
四十六
かなしかりにし昨日《きのふ》さへ、
かなしかりにし涙さへ、
明日《あす》は忘れむ、肥滿《ふと》れる君よ。
四十七
廢《すた》れたる園のみどりに
ふりそそぎ、ふりそそぎ、にほやかに小雨はうたふ。
罌粟《けし》よ、罌粟よ、
やはらかに燃えもいでね…………
四十八
なにゆゑに汝《な》は泣く、
あたたかに夕日にほひ、
たんぽぽのやはき溜息《ためいき》野に蒸して甘くちらばふ。
さるを女、
なにゆゑに汝《な》は泣く。
四十九
あはれ、人妻、
ふたつなきフランチエスカの物語
かたらふひまもみどり兒は聲を立てつつ、
かたはらを匍ひもてありく、
君はまた、たださりげなし。
あはれ、人妻。
五十
いかにせむ…………
やはらかに
眼も燃《も》えて、
ああ君は
唇《くちびる》をさしあてたまふ。
五十一
色赤き三日月。
色赤き三日月。
今日もまた臥床《ふしど》に
君が兒は銀笛のおもちやをぞ吹く、
やすらけきそのすさびよ。
五十二
柔《やは》らかなる日ざしに
張物《はりもの》する女、
いろいろの日ざしに
もの思ふ女、
柔らかなる日ざしに
張物《はりもの》する女。
五十三
われは怖る、
その宵のたはむれには似もやらで、
なにごとも忘れたる
今朝《けさ》の赤き唇。
五十四
いそがしき葬儀屋のとなり、
驛遞《えきてい》の局に似通ふ兩替《りようがえ》のペンキの家に、
われ入りて出づる間《ま》もなく、
折よくも電車むかへて、そそかしく飛びは乘りつれ。
いづくにか行きてあるべき、
ただひとり、ただひとり、指《さ》すかたもなく。
五十五
明日《あす》こそは
面《かほ》も紅めず、
うちいでて、
あまりりす眩《まば》ゆき園を、
明日こそは
手とり行かまし。
五十六
色あかきデカメロンの
書《ふみ》に肱つき、
なにごとをか思ひわづらひたまふ。
わかうどの友よ、
美くしきかかる日の夕暮に、さは疎《うと》くたれこめてのみ、
なにごとをか思ひわづらひたまふ。
五十七
あはれ、鐵雄、
靜かなる汝《な》が顏の蒼さよ、
聲もなきは泣きやしつる、
たよりなき闇の夜を
光りて消ゆる花火に。
五十八
ほの青く色ある硝子、
透かし見すれば
内部《うちら》なる耶蘇の龕《みづし》にひとすぢの香《かう》たちのぼる。
街《まち》をゆき、透かし見すれば
日の眞晝ものの靜かにほのかにも香たちのぼる。
五十九
薄青き齒科醫《しくわい》の屋《いへ》に
夕日さし、
ほのかにも硝子は光る。
あはれ、女、
その戸いでていづちにかゆく…………
黄なる陽《ひ》に汝《な》を見れば
われもまたほの淡き齒痛《しつう》をおぼゆ。
六十
あはれ、あはれ、
灰色の線路にそひ、
ひとすぢの線路にそひ、
今朝《けさ》もまた辿りゆく淺葱服《あさぎふく》のわかき工夫、
汝《なれ》もまた路のゆくてに
青き花をか求むる、
かなしき長きあゆみよ。
六十一
新詩社にありしそのかみ、
などてさは悲しかりし。
銀笛を吹くにも、
ひとり路をゆくにも、
歌つくるにも、
などてさは悲しかりし。
をさなかりしその日。
[#改頁]
過ぎし日
[#改頁]
※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66、92−1]芙藍
罅《ひゞ》入りし珈琲碗《カウヒわん》に
※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66、92−3]芙藍《さふらん》のくさを植ゑたり。
その花ひとつひらけば
あはれや呼吸《いき》のをののく。
昨日《きのふ》を憎むこころの陰影《かげ》にも、時に顫えて
ほのかにさくや、さふらん。
銀笛
[#6字下がる]病弟鐵雄に
思ひ出の夜《よ》の空の
ほの青き瓦斯《ガス》の火に、
しみじみと
銀笛の音ぞうれふ。
そこはかと粉雪《こゆき》ふり、
梅の花黄になげく
その苑《その》の、
身のいたき衰弱《おとろへ》や。
罅《ひび》うすき硝子戸に
肋膜《ろくまく》のわづらひに、
その胸に、
かの沁みる音はほそし。
寫眞屋の燒あとに
鶯の鳴きつかれ、
珈琲店《カフエ》にまた、
薄荷酒《はつかしゆ》の冷《ひ》えゆけば、
靈《たましひ》の病める手に、
げに一夜《ひとよ》、きざまれて、
ひとりまた
音《ね》にかつのる、そのなげきよ。
凾
過ぎし日は鍼醫《はりい》の手凾《てばこ》、
天鵝絨《びらうど》の紫の凾、
柔かに手を觸れて、珍らしく
パツチリとひらいた凾、舶來の凾。
銀かな具のつめたさ、
SORI−BATTEN.びらうどのしとやかさ、
そのびらうどに
薄う光る針。
顫える針をつまんで、
GONSHAN の薄い肌《はだへ》を刺すこころ、
やるせない夏の眞晝のその手つき。
つかれと、かなしみと、ものおもひ、
官能の欲《よく》…………
こころにくいほど落ちついて
しんみりと刺す盲人《めくら》の手。
過ぎし日は鍼醫《はりい》の手凾。
天鵝絨《びらうど》の紫の凾、
柔かに手を觸れて、なつかしく、
パツチリと閉《し》めた凾、舶來の凾、
註。Sori−batten. 然しながら。方言。阿蘭陀訛?
Gonshan. 良家の娘。柳河語
陰影
なつかしき陰影《いんえい》をつくらんとて
雛罌粟《ひなげし》はひらき、
かなしき疲れを求めんとて
女は踊る。
晴れやかに鳴く鳥は日くれを思ひ、
蜥蜴《とかげ》は美くしくふりかへり、
時計の針は薄らあかりをいそしむ…………
捉《とら》へがたき過ぎし日の歡樂《くわんらく》よ、
哀愁《あいしゆう》よ、
すべてみな、かはたれにうつしゆく
薄青きシネマのまたたき、
いそがしき不可思議のそのフィルム。
げにげにわかき日のキネオラマよ、
思ひ出はそのかげに伴奏《つれひ》くピアノ、
月と瓦斯との接吻《キス》、
瓏銀《ろうぎん》の水をゆく小舟。
なつかしき陰影をつくらんとて
雛罌粟《ひなげし》は顫へ、
かなしき疲れを求めんとて
女は踊る。
淡い粉雪
Tinka John 作
淡《あは》い粉雪はブリツキの
薄い光に消えてゆく、
老孃《オールドミス》のさみしさか、
青いその日も消えてゆく。
※[#「轂」の「車」に代えて「米」、102−7]倉のほめき
思ひ出は※[#「轂」の「車」に代えて「米」、103−1]倉《こくぐら》の挽臼《ひきうす》の上に
ぼんやりと置きわすれたる蝋燭の火か、
黄いろなる蝋燭の火は
苅麥《かりむぎ》と七面鳥の卵とに陰影《かげ》をあたへ、
惡戲者《いたづらもの》の二十日鼠にうちわななく。
柔かに鳴く聲は物忘《ものわす》れゆく女のごとく、
薄あかりする空窓《そらまど》の硝子より、
ふけゆく夜《よる》のもののねをやかなしむ。………
黄いろなる蝋燭のちろちろ火。
いまだに大人《おとな》びぬ TONKA JOHNの こころは
かの※[#「轂」の「車」に代えて「米」、104−2]物《こくもつ》の花にかくれんぼの友をさがし、
暖かにのこりたる祭《まつり》のお囃子《はやし》にききふける…………
さみしき曙の見えて
顏青き乞食らのさし覗かぬほどぞ、
しづやかに燃え盡きむ
美くしき蝋燭のその涙…………
註 Tonka John.大きい方の坊つちやん、弟と比較していふ、柳河語。
殆どわが幼年時代の固有名詞として用ゐられたものなり。
人々はまた弟の方をTinka John と呼びならはしぬ。阿蘭陀訛?
初戀
薄らあかりにあかあかと
踊るその子はただひとり。
薄らあかりに涙して
消ゆるその子もただひとり。
薄らあかりに、おもひでに、
踊るそのひと、そのひとり。
泣きにしは
美はしき、そは兎《と》まれ、人妻よ。
ほのかにも唇《くち》ふれて泣きにしは、
君ならじ、我ならじ、その一夜《ひとよ》。
青みゆく蝋《らう》の火と月光《つきかげ》と、
瞬間《たまゆら》にほのぼのとくちつけて
消えにしを、落ちにしを、その一夜。
さるになど光ある御空より
君はまた香《か》を求め泣き給ふ。
あな、あはれ、その一夜、泣きにしは
君ならじ、そのかみのわが少女。
薊の花
今日《けふ》も薊《あざみ》の紫に、
刺《とげ》が光れば日は暮れる。
何時《いつ》か野に來てただひとり
泣いた年増《としま》がなつかしや。
カステラ
カステラの縁《ふち》の澁さよな、
褐色《かばいろ》の澁さよな、
粉《こな》のこぼれが眼について、
ほろほろと泣かるる。
まあ、何とせう、
赤い夕日に、うしろ向いて
ひとり植ゑた石竹。
散歩
過ぎし日のおもひでに
植物園を歩行《ある》けば、
霜白く、薄黄《うすぎ》水仙の芽も青く、
鳴く鳥すらもほのかなれや、佛蘭西の赤靴…………
骨牌《トランプ》のこころもちに
クロウバのうへをゆけば
朝はやく、あるかなきかの香《か》も痒《かゆ》く、
鳴く蟲すらもほのかなれや、佛蘭西の赤靴…………
かの蒼白《あおじろ》き年増《としま》を
恐れて、そつと歩めば、
日は光り、いまだ茴香《うゐきやう》の露も苦《にが》く、
鳴くこころすらもほのかなれや、佛蘭西の赤靴…………
隣りの屋根
夕まぐれ、たれこめて珈琲のにほひに噎《むせ》び、
古ぼけし和蘭陀自鳴鐘《おらんだとけい》取りおろし拭きつつあれば
黄に光るザボンの實ぽつかりと夕日に浮び、
黒猫はひそやかにそのかげをゆく…………
あたたかき足跡のつづきゆく瓦の塵よ。
風重きかの屋根に香《にほひ》濃き艸こそなけれ。
※[#「日/咎」、第3水準1−85−32、111−7]《かげ》りゆく日のあゆみたまゆらに明《あか》ると見つつ、
過ぎし日のやるせなき思ひ出はまた※[#「日/咎」、第3水準1−85−32、111−8]《かげ》りゆく。
見果てぬ夢
過ぎし日のしづこころなき口笛は
日もすがら葦の片葉の鳴るごとく、
ジブシイの晝のゆめにも顫ふらん。
過ぎし日のあどけなかりし哀愁《かなしみ》は
こまやかに匂《にほひ》シヤボンの消ゆるごと
目のふちの青き年増《としま》や泣かすらん。
過ぎし日のうつつなかりしためいきは
淡《うす》ら雪赤のマントにふるごとく、
おもひでの襟のびらうど身にぞ沁む。
吹き馴れし銀《ぎん》のソプラノ身にぞ沁む。
過ぎし日の、その夜《よる》の、言はで過ぎにし片おもひ。
高機
高機《たかはた》に
梭投げぬ。
きりはたり。
その胸に
梭投げぬ。
きりはたり。
高機に、
その胸に、
きりはたり。
歌ひ時計
けふもけふとて氣まぐれな、
晝の日なかにわが涙。
かけて忘れたそのころに
銀の時計も目をさます。
朝の水面
朝の水面《みのも》の燻銀《いぶしぎん》
泣けばちらちら日が光る。
わしがこころの燻銀《いぶしぎん》、
けふもさみしくちらちらと。
青いソフトに
青いソフトにふる雪は
過ぎしその手か、ささやきか、
酒か、薄荷《はつか》か、いつのまに
消ゆる涙か、なつかしや。
意氣なホテルの
意氣なホテルの煙突《けむだし》に
けふも粉雪のちりかかり、
青い灯《ひ》が點《つ》きや、わがこころ
何時《いつ》もちらちら泣きいだす。
霜
柔かなる月の出に
生《なま》じろき百合の根は匂ひいで、
鴉の鳴かで歩みゆく畑、
その畑に霜はふる、銀の薄き疼痛《とうつう》…………
過ぎし日は苦《にが》き芽を蒔きちらし、
沈默《ちんもく》はうしろより啄みゆく、
虎列拉《コレラ》病める農人《のうにん》の厨に
黄なる灯《ひ》の聲もなくちらつけるほど。
霜はふる、土龍《もぐら》の死にし小徑《みち》に、
かつ黒き鳥類《てうるゐ》の足あとに、故郷《ふるさと》のにほひに、
霜はふる、しみじみと鍼《はり》をもてかいさぐりゆく
盲鍼醫《めくらはりい》の觸覺のごと、
思ひ出の月夜なり、銀《しろがね》の痛《いた》き鍍
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