》つてしんと默つて顫えてゐやる。
傍《そば》ぢや、ちんから目さまし時計、
ほんに、ちんから、目さまし時計、
春の小歌をうたひ出す、
佛蘭西の銀のマーチを歌ひ出す。
長崎の、長崎の
人形つくりはいぢらしや、
いぢらしや。
くろんぼ
くろんぼのまだうらわかい母親は
くろんぼの嬰兒《みどりご》の圓《まろ》い頭《あたま》を撫でさすり、
乳をのませ、
滑《すべ》るその手もしなやかに黒い頭《あたま》を撫でさする。
長崎の異人屋敷の棕梠の花、
カステラ色の棕梠の花。
その日あたりに足投げいだし、
ものおもふくろんぼに抱かるる
くろんぼの兒よ。
くろんぼの兒は乳をのみ、
頭《あたま》をなんとなく撫でらるる快さに
靜こころなくつく呼吸《いき》の、
出で入る呼吸《いき》の、
光澤《つや》のある母の皮膚を、
なめらかなその胸を
また滑《なめ》らかに撫でかへす…………
夏の午《ひる》過ぎ、ついちろちろと鳥のこゑ、
水平線のかがやきは銀《ぎん》を流して一線《ひとすぢ》に。
母親の夢は何をおもふ。
無心に乳をのむくろんぼの
その兒の、
黒い手のひらに握られて、
しめやかに匍ひいづる
首の赤い一匹の、その螢……………
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斷章 六十一
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斷章
一
今日《けふ》もかなしと思ひしか、ひとりゆふべを、
銀の小笛の音《ね》もほそく、ひとり幽かに、
すすり泣き、吹き澄ましたるわがこころ、
薄き光に。
二
ああかなし、
あはれかなし、
君は過ぎます、
薫《くゆり》いみじきメロデアのにほひのなかに、
薄れゆくクラリネツトの音のごとく、
君は過ぎます。
三
ああかなし、
あえかにもうらわかきああわが君は、
ひともとの芥子の花そが指に、香のくれなゐを
いと薄きうれひもてゆきずりに觸れて過ぎゆく。
四
あはれ、わが君おもふ※[#「ヰに濁点」、面区点番号1−7−83、43−1]オロンの靜かなるしらべのなかに、
いつもいつも力なくまぎれ入り、鳴きささやぐ驢馬のにほひよ、
あはれ、かの野邊に寢ねて、名も知らぬ花のおもてに、
あはれ、あはれ、酸《す》ゆき日のなげかひをわれひとり嗅ぎそめてより。
五
暮れてゆく雨の日の何となきものせはしさに
落したる、さは紅き實《み》の林檎、ああその林檎、
見も取らず、冷かに行き過ぎし人のうしろに、
灰色の路長きぬかるみに、あはれ濡れつつ
ただひとつまろびたる、燃えのこる夢のごとくに。
六
あはれ友よ、わかき日の友よ、
今日《けふ》もまた街《まち》にいでて少女らに面《おもて》染むとも、
な嘲《あざ》みそ、われはなほわれはなほ心をさなく、
やはらかき山羊《やぎ》の乳の香《か》のいまも身に失せもあへねば。
七
見るともなく涙ながれぬ。
かの小鳥
在ればまた來て、
茨《いばら》のなかの紅き實を啄《ついば》み去るを。
あはれまた、
啄み去るを。
八
女子よ、
汝《な》はかなし、
のたまはぬ汝《な》はかなし、
ただ、ひとつ、
一言《ひとこと》のわれをおもふと。
九
あはれ、日の
かりそめのものなやみなどてさはわれの悲しく、
※[#「窗/心」、第3水準1−89−54、47−4]照らす夕日の光さしもまた涙ぐましき、
あはれ、世にわれひとり殘されて死ぬとならねど、
わが側《かたへ》遠く去るとも人のまた告げしならねど、
さなり、ただ、かりそめのなやみなるにも。
十
あはれ、あはれ、色薄きかなしみの葉かげに、
ほのかにも見いでつる、われひとり見いでつる、
青き果のうれひよ。
あはれ、あはれ、青き果のうれひよ。
ひそかにも、ひそかにも、われひとり見いでつる
あはれその青き果のうれひよ。
十一
酒《さけ》を注《つ》ぐきみのひとみの
ほのかにも濡れて愁《うれ》ふる。
さな病みそ街《まち》のどよみの小夜《さよ》ふけて遠く沁むとも。
十二
女、汝《な》はなにか欲《ほ》りする。
ゆふぐれの、ゆふぐれのゆめふかきもののにほひに、
かくもまた汝《な》とともに接吻《くちつ》けて接吻《くちつ》けて、接吻《くちつ》けてほのかにも泣きつつあらば、あはれ、またなにの願か身にあらむ、ああさるをなほ女、汝《な》はなにか欲《ほ》りする、
ゆふぐれの、ゆふぐれのふたつなき夢のさかひに。
十三
なやましき晩夏《おそなつ》の日に、
夕日浴び立てる少女の
餘念《よねん》なき手にも揉《も》まれて、
やはらかににじみいでたる
色あかき爪《つま》くれなゐの花。
十四
わが友よ。
君もまた色青きペパミントの酒に、
かなしみの酒に、
いひしらぬ慰藉《なぐさめ》のしらべを、
今日《けふ》の日のわがごとも、
あはれ、友よ、思ひ知り泣きしことのありや。
十五
あはれ君、われをそのごと
清しとな正しとなおもひたまひそ。
われはただ強ひて清かり。
失せもあへぬそのかみの日の怯《おく》れたる弱きこころに、
ああかなし、われはさは強ひて清かり。
十六
哀《あはれ》知る女子のために、
われらいま黄金《こがね》なす向日葵《ひぐるま》のもとにうたふ。
哀《あはれ》知る女子のために。
十七
『口にな入れそ。』
色紅《あか》くかなしき苺葉かげより今日《けふ》も呼びつる。
『口にな入れそ。』
十八
われはおもふ、かの夕ありし音色《ねいろ》を。
いと甘き梔子《くちなし》の映《は》えあかるにほひのなかに、
埋もれつつ愁ふともなくただひとりありけるほどよ、
あはれ、さは通りすがりのちやるめらの肩をかへつつ、
ひとうれひ――ひいひゆるへうと荷擔夫《にかつぎ》の吹きもゆきしを。
あはれまた、夕日のなかに消えがてに吹きも過ぎしを。
十九
嗚呼さみし、哀れさみし、
今日《けふ》もまた都大路《みやこおほぢ》をさすらひくらし、
なにものか求めゆくとてさすらひくらし、
日をひと日ただあてもなうさすらひくらす。
嗚呼さみし、哀《あは》れさみし。
二十
大ぞらに入日のこり、
空いろにこころ顫ふ。
初戀の君おもふ
われの未練《みれん》ぞ、
あはれ、さは暮れはつるらむ。
二十一
いとけなき女の子に
きかすとにはあらねど、
たはむれにきかしぬる
わかき日の歌よ。
わが戀ふる君も知らねば。
二十二
わが友いづこにありや。
晩秋《おそあき》の入日の赤さ、さみしらにひとり眺めて、
掻《か》いさぐるピアノの鍵《けん》の現《うつつ》なき高音《たかね》のはしり、
かくてはや、獨身《ひとりみ》の獨身《ひとりみ》の今日《けふ》も過ぎゆく。
二十三
彌《いや》古りて、大理石《なめいし》はいよよ眞白に、
彌《いや》古りてかなしみはいよよ新らし、
彌《いや》古りて彌《いや》 清く、いよよかなしく。
二十四
泣かまほしさにわれひとり、
冷《ひ》やき玻璃戸《はりど》に手もあてつ、
※[#「窗の/心」、第3水準1−89−54、59−7]の彼方《かなた》はあかあかと沈む入日の野ぞ見ゆる。
泣かまほしさにわれひとり。
二十五
柔かきかかる日の光のなかに、
いまひとたび、あはれ、いまひとたび、
ほのかにも洩らしたまひね、
われを戀ふと。
二十六
蝉も鳴く、ひと日ひねもす、
『かなし、かなし、ああかなし、今日《けふ》なほひとり。』
二十七
そを思《も》へばほのかにゆかし。
かの古りし朱塗《しゆぬり》のうつは、
そがなかに薫《くゆ》りにし
馬尼拉《マニラ》煙草《たばこ》よ。
いつの日のゆめとわかねど。
二十八
あはれ、あはれ、すみれの花よ。
しをらしきすみれの花よ。
汝《な》はかなし、
色あかき煉瓦の竈《かま》の
かげに咲く汝《な》はかなし。
はや朝明《あさあけ》の露ふみて
われこそ今し
妹《いもうと》の骨ひろひにと來しものを。
二十九
青梅に金《きん》の日光り、
地は濡れて鈴蟲鳴く。
日暮らしの日暮らしの雨の絶間《たえま》に、
いつしらず鈴蟲鳴く。
三十
あはれ、さはうち鄙《ひな》びたる
いはけなき玉乘の子が危《あぶ》なげに足にあはせて、
かすかにも彈き鳴らす※[#「ヰに濁点」、面区点番号1−7−83、64−4]オロン彈《ひ》きの少女。
三十一
いまもなほ
ワグネルのしらべに
日をひと日浮身をや窶《やつ》したまへる。
かなしきは女ぞかし。
離《さか》り來て野邊《のべ》におもへば
露くさの花の色だにさはひとり求《と》めわぶるなる。
三十二
わが友は色あかき酒を飮みにき、
われはサイダア、
あはれかかる淡《あは》つけき愁《うれひ》もて
わかき日を泣かむとする、弱き子の心ぼそさよ。
三十三
あはれ、去年《こぞ》病みて失せにし
かのわかき辯護士の庭を知れりや。
そは、街《まち》の角《かど》の貸家の
褪《さめ》めはてし飾硝子《かざりがらす》の戸を覗《のぞ》け、草に雨ふり、
色紅き罌粟のひともと濡れ濡れて燃えてあるべし。
あはれまた、そのかみの夏のごとくに。
三十四
ああ、あはれ、
青にぶき救世軍の
汚《よ》ごれたる硝子戸のまへに
向日葵《ひぐるま》咲き、
濠端《ほりばた》を半纒《はんてん》ひとりペンキ壺さげて過ぎゆく。
いづこにか物賣の笛、
ああ、ひと目――日の夕、
われはいま忙《せわ》しなの電車より。
三十五
縁日《えんにち》の見世ものの、臭《くさ》き瓦斯にも面《おもて》うつし、
怪しげの幕のひまより活動寫眞《くわつどう》の色は透かせど、
かくもまた廉白粉《やすおしろひ》の、人込《ひとごみ》のなかもありけど、
さはいへど、さはいへど、わかき身のすべもなき、涙ながるる。
三十六
鄙《ひな》びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。
いそがしき活動寫眞《くわつどうしやしん》煤びたる布に映すと、
かりそめの場末の小屋に瓦斯の火の消え落つるとき、
鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。
三十七
あはれ、あはれ、
色青き幻燈を見てありしとき、
なになればたづきなく、かのごとも涙ながれし、
いざやわれ倶樂部にゆき、友をたづね、
紅《くれなゐ》のトマト切り、ウヰスキイの酒や呼ばむ、
ほこりあるわかき日のために。
三十八
瓦斯の火のひそかにも聲たつるとき、
われ、君を悲しとおもひ、
靴ぬぐひの皮に
踵なる土《つち》蹈みなすなり、
別れ來て、土蹈みなすなり、
ほの黄なるしめり香の、かの苑の香《か》を嗅げば、
いまさらに涙ながる…………
三十九
忘れたる、
忘れたるにはあらねども…………
ゆかしとも、戀ひしともなきその人の
なになればふともかなしく、
今日の日の薄暮《くれがた》のなにかさは青くかなしき、
忘れたる、
忘れたるにはあらねども…………
四十
つねのごと街《まち》をながめて
ナイフ執り、フオク執り、女らに言葉かはせど、
色赤きキユラソオの酒さかづきにあるは滿たせど、
かなしみはいよいよ去らず、
かにかくにわかき身ゆゑに涙のみあふれていでつつ。
四十一
かかるかなしき手つきして、
かかる音《ね》にこそ彈きにしか、
かかるかなしきその日の少女《おとめ》。
四十二
あかき果《み》は草に落ち、
露に濡れて、
日をひと日|戰《おのの》きぬ、かくてまた香《か》だに立て得じ。
雨霽れて、日の射せば、甘く、かなしく、
物|求食《あさ》り、物|求食《あさ》り、寄りも來る音《ね》の
レグホンの雄の鷄《とり》の、あはれそがけたたましさよ。
四十三
葬式《ともらひ》の歸途《かへり》にか、戲れに笛吹き鳴らし、
もの甘き靄の内さざめきてたどる樂師よ。
哀れ、汝《なれ》ら、
薄ぐらき路次の長屋にひと時の後やあるらむ。
さはれなほ吹き鳴らし吹き鳴らし長閑《のど》に消えつつ、
うら若き服の鄙びのいろ赤く、なにか眺むる。
日はしばし夢の世界に目を放つ、黄金の光。…………
四十四
顏のいろ蒼ざめて
ゆめ見るごとき眼眸《まなざし》、
今日もまたわかき男、
空をのみ空をのみ見やりて暮らす。
四十五
長き日の光に倦《う》
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