、さうしてただ夢の樣に何ものかを探し囘つてもう馴《なれ》つこになつて珍らしくもない自分たちの瀉くさい海の方へ歸らうとも思はなんだ。
 かういふ次第で私は小さい時から山のにほひに親しむことが出來た。私はその山の中で初めて松脂のにほひを嗅ぎ、ゐもりの赤い腹を知つた。さうして玉蟲と斑猫《はんめう》と毒茸と、…………いろいろの草木、昆蟲、禽獸から放散する特殊のかをりを凡て驚異の觸感を以て嗅いで囘つた。かかる場合に私の五官はいかに新らしい喜悦に顫へたであらう。それは恰度薄い紗《きれ》に冷たいアルコールを浸して身體の一部を拭いたあとのやうに山の空氣は常に爽やかな幼年時代の官感を刺戟せずには措かなかつた。
 南關の春祭りはまた六騎《ロツキユ》の街に育った羅漫的《ロマンチツク》な幼兒をして山に對する好奇心を煽てるに充分であつた。私は祭物見の前後に顫へながらどんぐりの實のお池の水に落つる音をきき、それからわかい叔母の乳くびを何となく手で觸つた。

   5

 さて、柳河の虚弱なびいどろ罎[#「びいどろ罎」に傍点]は何時《いつ》のまにか内氣な柔順《おとな》しいさうして癇の蟲のひりひりした兒になつた。私は
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