みしき曙の見えて
顏青き乞食らのさし覗かぬほどぞ、
しづやかに燃え盡きむ
美くしき蝋燭のその涙…………
註 Tonka John.大きい方の坊つちやん、弟と比較していふ、柳河語。
殆どわが幼年時代の固有名詞として用ゐられたものなり。
人々はまた弟の方をTinka John と呼びならはしぬ。阿蘭陀訛?
初戀
薄らあかりにあかあかと
踊るその子はただひとり。
薄らあかりに涙して
消ゆるその子もただひとり。
薄らあかりに、おもひでに、
踊るそのひと、そのひとり。
泣きにしは
美はしき、そは兎《と》まれ、人妻よ。
ほのかにも唇《くち》ふれて泣きにしは、
君ならじ、我ならじ、その一夜《ひとよ》。
青みゆく蝋《らう》の火と月光《つきかげ》と、
瞬間《たまゆら》にほのぼのとくちつけて
消えにしを、落ちにしを、その一夜。
さるになど光ある御空より
君はまた香《か》を求め泣き給ふ。
あな、あはれ、その一夜、泣きにしは
君ならじ、そのかみのわが少女。
薊の花
今日《けふ》も薊《あざみ》の紫に、
刺《とげ》が光れば日は暮れる。
何時《いつ》か野に來てただひとり
泣いた年増《としま》がなつかしや。
カステラ
カステラの縁《ふち》の澁さよな、
褐色《かばいろ》の澁さよな、
粉《こな》のこぼれが眼について、
ほろほろと泣かるる。
まあ、何とせう、
赤い夕日に、うしろ向いて
ひとり植ゑた石竹。
散歩
過ぎし日のおもひでに
植物園を歩行《ある》けば、
霜白く、薄黄《うすぎ》水仙の芽も青く、
鳴く鳥すらもほのかなれや、佛蘭西の赤靴…………
骨牌《トランプ》のこころもちに
クロウバのうへをゆけば
朝はやく、あるかなきかの香《か》も痒《かゆ》く、
鳴く蟲すらもほのかなれや、佛蘭西の赤靴…………
かの蒼白《あおじろ》き年増《としま》を
恐れて、そつと歩めば、
日は光り、いまだ茴香《うゐきやう》の露も苦《にが》く、
鳴くこころすらもほのかなれや、佛蘭西の赤靴…………
隣りの屋根
夕まぐれ、たれこめて珈琲のにほひに噎《むせ》び、
古ぼけし和蘭陀自鳴鐘《おらんだとけい》取りおろし拭きつつあれば
黄に光るザボンの實ぽつかりと夕日に浮び、
黒猫はひそやかにそのかげをゆく…………
あたたかき足跡のつづきゆく瓦の塵よ。
風重きかの屋根に香《にほひ》濃き艸こそなけれ。
※[#「日/咎」、第3水準1−85−32、111−7]《かげ》りゆく日のあゆみたまゆらに明《あか》ると見つつ、
過ぎし日のやるせなき思ひ出はまた※[#「日/咎」、第3水準1−85−32、111−8]《かげ》りゆく。
見果てぬ夢
過ぎし日のしづこころなき口笛は
日もすがら葦の片葉の鳴るごとく、
ジブシイの晝のゆめにも顫ふらん。
過ぎし日のあどけなかりし哀愁《かなしみ》は
こまやかに匂《にほひ》シヤボンの消ゆるごと
目のふちの青き年増《としま》や泣かすらん。
過ぎし日のうつつなかりしためいきは
淡《うす》ら雪赤のマントにふるごとく、
おもひでの襟のびらうど身にぞ沁む。
吹き馴れし銀《ぎん》のソプラノ身にぞ沁む。
過ぎし日の、その夜《よる》の、言はで過ぎにし片おもひ。
高機
高機《たかはた》に
梭投げぬ。
きりはたり。
その胸に
梭投げぬ。
きりはたり。
高機に、
その胸に、
きりはたり。
歌ひ時計
けふもけふとて氣まぐれな、
晝の日なかにわが涙。
かけて忘れたそのころに
銀の時計も目をさます。
朝の水面
朝の水面《みのも》の燻銀《いぶしぎん》
泣けばちらちら日が光る。
わしがこころの燻銀《いぶしぎん》、
けふもさみしくちらちらと。
青いソフトに
青いソフトにふる雪は
過ぎしその手か、ささやきか、
酒か、薄荷《はつか》か、いつのまに
消ゆる涙か、なつかしや。
意氣なホテルの
意氣なホテルの煙突《けむだし》に
けふも粉雪のちりかかり、
青い灯《ひ》が點《つ》きや、わがこころ
何時《いつ》もちらちら泣きいだす。
霜
柔かなる月の出に
生《なま》じろき百合の根は匂ひいで、
鴉の鳴かで歩みゆく畑、
その畑に霜はふる、銀の薄き疼痛《とうつう》…………
過ぎし日は苦《にが》き芽を蒔きちらし、
沈默《ちんもく》はうしろより啄みゆく、
虎列拉《コレラ》病める農人《のうにん》の厨に
黄なる灯《ひ》の聲もなくちらつけるほど。
霜はふる、土龍《もぐら》の死にし小徑《みち》に、
かつ黒き鳥類《てうるゐ》の足あとに、故郷《ふるさと》のにほひに、
霜はふる、しみじみと鍼《はり》をもてかいさぐりゆく
盲鍼醫《めくらはりい》の觸覺のごと、
思ひ出の月夜なり、銀《しろがね》の痛《いた》き鍍
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