なつかしき足音もあり。

わが部屋に、わが部屋に
奇異《ふしぎ》なる事ありき、
かなしきはそれのみか、
その日より戸はあかず、…………
せんなしや、わが夢も、足音も、赤き版古《はんこ》も。

わが部屋に、わが部屋に
弊私的里《ヒステリー》の從姉《いとこ》きて
蒼白く泣けるあり。
誰なれば誰なればかの頭《あたま》
醫者のごと寄り添ひて眠《ぬ》るやらむ。

わが部屋に、わが部屋に、
ほこらしく、さは二人《ふたり》。


 監獄のあと


廢《すた》れたる監獄《かんごく》に
鷄頭さけり、
夕日の照ればかなしげに
頸《くび》を顫はす。

そのなかにきのふまで
白痴《はくち》の乞食《こじき》、
髪くさき女の甘き恐怖《おそれ》もて
虱《しらみ》とりつる。

ある日、血は鷄頭の
半開《はんかい》の花にちり、
毛の黄なる病犬《やまいぬ》の
ひとり光ぬ。

そののちはなにも見ず、
かの犬も殺されて
しどけなき長雨の
ふりつづく月はきぬ。

廢れたる監獄に
鷄頭咲けり、
夕日のてればかなしげに
頸《くび》を顫はす。


 午後


わが友よ、
けふもまた骨牌《トランプ》の遊びにや耽らまし、
かの轉《まろ》がされし酒桶《さかをけ》のなかに入りて、
風味《ふうみ》よき日光を浴《あ》び、
絶えず白きザボンの花のちるをながめ、
肌さはりよきかの酒の木香《きが》のなかに日くるるまで、
わが友よ、
けふもまた舶來のリイダアをわれらひらき、
珍らしき節《ふし》つけて『鵞鳥はガツグガツグ』とぞ、そぞろにも讀み入りてまし。


 アラビアンナイト物語


鳴いそな鳴いそ春の鳥。
菱《ひし》の咲く夏のはじめの水路《すゐろ》から
銀が、みどりが………顫へ來て、
本の活字《くわつじ》が目に沁みる。

鳴いそな鳴いそ春の鳥。
赤い表紙の手ざはりが
狂氣《きやうき》するほどなつかしく、
けふも寢てゆく舟の上。

鳴いそな鳴いそ春の鳥。
葡萄色した酒ぶくろ、
干しにゆく日の午後《ひるすぎ》に
しんみりと鳴る、櫓の音が………

鳴いそな鳴いそ春の鳥。
ネルのにほひか、酒の香か、
舟はゆくゆく、TONKA JOHN
魔法つかひが金の夢。
 註 酒を搾り了れるあとの濕りたる酒の袋を干しにとて、日ごとにわが家の小舟は街の水路を上りて柳河の公園の芝生へとゆく。わが幼時の空想はまたこの小舟の上にて思ふさまその可憐なる翅をばかいひろげたり。[#この註、2行目以降は3字下げ]


 敵


いづこにか敵のゐて、
敵のゐてかくるるごとし。
酒倉のかげをゆく日も、
街《まち》の問屋に
銀紙《ぎんがみ》買ひに行くときも、
うつし繪を手の甲に押し、
手の甲に押し、
夕日の水路《すゐろ》見るときも、
ただひとりさまよふ街の
いづこにか敵のゐて
つけねらふ、つけねらふ、靜こころなく。


 たそがれどき


たそがれどきはけうとやな、
傀儡師《くぐつまはし》の手に踊る
華魁《おいらん》の首|生《なま》じろく、
かつくかつくと目が動く…………

たそがれどきはけうとやな、
瀉に墮《おと》した黒猫の
足音もなく歸るころ、
人靈《ひとだま》もゆく、家《や》の上を。

たそがれどきはけうとやな、
馬に載せたる鮪《しび》の腹
薄く光つて滅《き》え去れば、
店の時計がチンと鳴る。

たそがれどきはけうとやな、
日さへ暮るれば、そつと來て
生膽取《いきぎもとり》の青き眼が
泣く兒|欲《ほ》しやと戸を覗《のぞ》く…………

たそがれどきはけうとしやな。


 赤き椿


わが眼《め》に赤き藪椿。
外《そと》の空氣にあかあかと、
音なく光り、はた、落つる。
いま死にのぞむわが乳母の
かなしき眼《め》つき…………藪椿。

醜《みにく》き面《かほ》をゆがめつつ
家畜《かちく》のごとく、はた泣くは、
わが手を執《と》るは、吸ひつくは、
憎《にく》く、汚《きた》なく恐ろしき
最愛《さいあい》の手か、たましひか。

かの眼《め》に赤き藪椿。
小さき頭惱《あたま》にあかあかと、
音なく光り、はた、落つる。


 二人


夏の日の午後《ひるすぎ》…………
瓦には紫の
薊ひとりかゞやき、
そことなしに雲が浮ぶ。

酒倉の壁は
二階の女部屋にてりかへし、
痛《いた》いやうに針が動く、
印度更紗のざくろの實。

暑い日だつた。
默《だま》つて縫ふ女の髪が、
その汗が、溜息《ためいき》が、
奇異《ふしぎ》な切なさが…………

惱ましいひるすぎ、
人形の首はころがり、
黒い蝶《チユウツケ》の斷《ちぎ》れた翅《つばさ》、
その粉《こな》の光る美くしさ、怪しさ。

たつた二人、…………
何か知らぬこころに
九歳《ここのつ》の兒が顫へて
そつと閉《し》めた部屋の戸。


 たはむれ


菖蒲の花の紫は
わが見物のこころかな。
かつは家鴨《あひる
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