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――汽車のなかにて――
[#ここで字下げ終わり]
わが友よ、はや眼《め》をさませ。
玻璃《はり》の戸にのこる灯《ひ》ゆらぎ、
夜《よ》はわかきうれひに明けぬ。
順礼はつとにめざめて
あえかなる友をかおもふ。
清《すず》しげの髪のそよぎに
笈《おひづる》のいろもほのぼの。
わが友よ、はや眼《め》をさませ。
かなた、いま白《しら》む野のそら、
薔薇《さうび》にはほのかに薄《うす》く
菫よりやや濃《こ》きあはひ、
かのわかき瞳《ひとみ》さながら
あけぼのの夢より醒《さ》めて
わだつみはかすかに顫《ふる》ふ。
紅玉
かかるとき、
海ゆく船に
まどはしの人魚《にんぎよ》か蹤《つ》ける。
美くしき術《じゆつ》の夕《ゆふべ》に、
まどろみの香油《かうゆ》したたり、
こころまた
けぶるともなく、
幻《まぼろし》の黒髪きたり、
夜《よ》のごとも
わが眼《め》蔽《おほ》へり。
そことなく
おほくのひとの
あえかなるかたらひおぼえ、
われはただひし[#「ひし」に傍点]と凝視《みつ》めぬ。
夢ふかき黒髪の奥《おく》
朱《しゆ》に喘ぐ
紅玉《こうぎよく》ひとつ、
これや、わが胸より落つる
わかき血の
燃《もゆ》る滴《したたり》。
海辺の墓
われは見き、
いつとは知らね、
薄《うす》あかるにほひのなかに
夢ならずわかれし一人《ひとり》、
ものみなは涙のいろに
消えぬとも。
ああ、えや忘る。
かのわかき黒髪のなか、
星のごと濡れてにほひし
天色《そらいろ》の勾玉《まがたま》七つ。
われは見ぬ、
漂浪《さすら》ひながら、
見もなれぬ海辺の墓に
うつつにも眠れる一人《ひとり》
そことなき髪のにほひの
ほのめきも、
ああ、えや忘る。
いま寒き夕闇《ゆふやみ》のそこ、
星のごと濡れてにほへる
天色《そらいろ》の露草《つゆくさ》七つ。
渚の薔薇
紀《き》の南《みなみ》、白良《しらら》の渚《なぎさ》、
荒き灘《なだ》高く砕《くだ》けて
天《そら》暗《くら》う轟《とどろ》くほとり、
ひとならび夕陽《ゆふひ》をうけて
面《おも》ほてり、むらがり咲ける
色|紅《あか》き薔薇《さうび》の族《ぞう》よ。
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瞬《またた》く間《ま》、間近《まぢか》に寄せて
崩《なだ》れうつ浪の穂を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
今しさ[#「さ」に傍点]と滴《したた》るばかり
激瀾《おほなみ》の飛沫《しぶき》に濡れて、
弥《いや》さらに匂ひ閃《ひら》めく
火のごとき少女《をとめ》のむれよ。
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寄せ返し、遠く消えゆく
塩※[#「さんずい+區」、第3水準1−87−4]《しほなわ》暗き音《ね》を聴け。
[#ここで字下げ終わり]
ああ薔薇《さうび》、汝《なれ》にむかへば
わかき日のほこりぞ躍る。
薔薇《さうび》、薔微《さうび》、あてなる薔薇《さうび》。
紐
海の霧にほやかなるに
灯《ひ》も見ゆる夕暮のほど、
ほのかなる旅籠《はたご》の窓に
在《あ》るとなく暮《く》れもなやめば、
やはらかき私語《ささやき》まじり
咽《むせ》びきぬ、そこはかとなく、
火に焼くる薔薇《さうび》のにほひ。
ああ、薔薇《さうび》、暮れゆく今日《けふ》を
そぞろなり、わかき喘《あへぎ》に
図《はか》らずも思ひぞいづる。
そは熱《あつ》き夏の渚辺《なぎさべ》、
濡髪《ぬれがみ》のなまめかしさに、
女《をみな》つと寝《ね》がへりながら、
みだらなる手して結びし
色|紅《あか》き韈《くつした》の紐《ひも》。
昼
蜜柑船《みかんぶね》凪《なぎ》にうかびて
壁白き浜のかなたは
あたたかに物売る声す。
波もなき港の真昼《まひる》、
白銀《しろがね》の挿櫛《さしぐし》撓《たは》み
いま遠く二つら三つら
水の上《へ》をすべると見つれ。
波もなき港の真昼、
また近く、二つら三つら
飛《とび》の魚すべりて安《やす》し。
夕
あたたかに海は笑《わら》ひぬ。
花あかき夕日の窓に、
手をのべて聴くとしもなく
薔薇《さうび》摘《つ》み、ほのかに愁《うれ》ふ。
いま聴くは市《いち》の遠音《とほね》か、
波の音《ね》か、過ぎし昨日《きのふ》か、
はた、淡《あは》き今日《けふ》のうれひか。
あたたかに海は笑ひぬ。
ふと思ふ、かかる夕日《ゆふひ》に
白銀《しろがね》の絹衣《すずし》ゆるがせ、
いまあてに花|摘《つ》みながら
かく愁《うれ》ひ、かくや聴《き》くらむ、
紅《くれなゐ》の南極星下《なんきよくせいか》
われを思ふ人のひとりも。
羅曼底の瞳
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この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。
[#ここで字下げ終わり]
美《うつ》くしきソフィヤの君《きみ》。
悲《かな》しくも恋《こひ》しくも見え給ふわがわかきソフィヤの君《きみ》。
なになれば日もすがら今日《けふ》はかく瞑目《めつぶ》り給ふ。
美《うつ》くしきソフィヤの君《きみ》、
われ泣けば、朝な夕《ゆふ》なに、
悲《かな》しくも静《しづ》かにも見ひらき給ふ青き華《はな》――少女《をとめ》の瞳《ひとみ》。
ソフィヤの君《きみ》。
[#改丁]
古酒
こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の※[#「酉+珍のつくり」、169−8]※[#「酉+蛇のつくり」、第4水準2−90−34]の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
[#改ページ]
恋慕ながし
春ゆく市《いち》のゆふぐれ、
角《かく》なる地下室《セラ》の玻璃《はり》透き
うつらふ色とにほひと
見惚《みほ》れぬ。――潤《う》るむ笛の音《ね》。
しばしは雲の縹《はなだ》と、
灯《ひ》うつる路《みち》の濡色《ぬれいろ》、
また行く素足《すあし》しらしら、――
あかりぬ、笛の音色《ねいろ》も。
古き醋甕《すがめ》と街衢《ちまた》の
物焼く薫《くゆり》いつしか
薄らひ饐《す》ゆれ。――澄みゆく
紅《あか》き音色《ねいろ》の揺曳《ゆらびき》
このとき、玻璃《はり》も真黒《まくろ》に
四輪車《しりんしや》軋《きし》るはためき、
獣《けもの》の温《ぬる》き肌《はだ》の香《か》
過《よ》ぎりぬ。――濁《にご》る夜《よ》の色。
ああ眼《め》にまどふ音色《ねいろ》の
はやも見わかぬかなしさ。
れんほ、れれつれ、消えぬる
恋慕《れんぼ》ながしの一曲《ひとふし》。
[#地付き]四十年二月
煙草
黄《き》のほてり、夢のすががき、
さはあまきうれひの華《はな》よ。
ほのに汝《な》を嗅《か》ぎゆくここち、
QURACIO《キユラソオ》 の酒もおよばじ。
いつはあれ、ものうき胸に
痛《いたみ》知るささやきながら、
わかき火のにほひにむせて
はばたきぬ、快楽《けらく》のうたは。
そのうたを誰かは解《と》かむ。
あえかなる罪のまぼろし、――
濃《こ》き華の褐《くり》に沁みゆく
愛欲《あいよく》の千々《ちぢ》のうれひを。
向日葵《ひぐるま》の日に蒸すにほひ、
かはたれのかなしき怨言《かごと》
ゆるやかにくゆりぬ、いまも
絶間《たえま》なき火のささやきに。
かくてわがこころひねもす
傷《いた》むともなくてくゆりぬ、
あな、あはれ、汝《な》が香《か》の小鳥
そらいろのもやのつばさに。
[#地付き]四十年九月
舗石
夏の夜《よ》あけのすずしさ、
氷載せゆく車の
いづちともなき軋《きしり》に、
潤《うる》みて消ゆる瓦斯《がす》の火。
海へか、路次《ろじ》ゆみだれて
大族《おほうから》なす鵞《が》の鳥
鳴きつれ、霧のまがひに
わたりぬ――しらむ舗石《しきいし》。
人みえそめぬ。煙草《たばこ》の
ただよひ湿《しめ》るたまゆら、
辻なる※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の絵硝子《ゑがらす》
あがりぬ――ひびく舗石《しきいし》。
見よ、女《め》が髪のたわめき
濡れこそかかれ、このとき
つと寄《よ》り、男、みだらの
接吻《くちつけ》――にほふ舗石《しきいし》。
ほど経て※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]を閑《さ》す音《おと》。
枝垂柳《しだれやなぎ》のしげみを、
赤き港の自働車《じどうしや》
けたたましくも過《す》ぎぬる。
ややあり、ほのに緋《ひ》の帯、
水色うつり過《す》ぐれば、
縺《もつ》れぬ、はやも、からころ、
かろき木履《きぐつ》のすががき。
[#地付き]四十年九月
驟雨前
長月《ながつき》の鎮守《ちんじゆ》の祭《まつり》
からうじてどよもしながら、
雨《あめ》もよひ、夜《よ》もふけゆけば、
蒸しなやむ濃《こ》き雲のあし
をりをりに赤《あか》くただれて、
月あかり、稲妻《いなづま》すなる。
このあたり、だらだらの坂《さか》、
赤楊《はん》高き小学校の
柵《さく》尽きて、下《した》は黍畑《きびばた》
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや女声《をみなごゑ》して
重たげに雨戸《あまど》繰《く》る音《おと》。
わかれ路《みち》、辻《つじ》の濃霧《こぎり》は
馬やどののこるあかりに
幻燈《げんとう》のぼかしのごとも
蒸し青《あを》み、破《や》れし土馬車《つちばしや》
ふたつみつ泥《どろ》にまみれて
ひそやかに影を落《おと》しぬ。
泥濘《ぬかるみ》の物の汗《あせ》ばみ
生《なま》ぬるく、重き空気《くうき》に
新しき木犀《もくせい》まじり、
馬槽《うまぶね》の臭気《くさみ》ふけつつ、
懶《もの》うげのさやぎはたはた
暑《あつ》き夜《よ》のなやみを刻《きざ》む。
足音《あしおと》す、生血《なまち》の滴《した》り
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、ほたや、六部《ろくぶ》か、
背《せ》に高き龕《みづし》をになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻《うめ》きつつ闇にまぎれぬ。
生騒《なまさや》ぎ野をひとわたり。
とある枝《え》に蝉は寝《ね》おびれ、
ぢと嘆《なげ》き、鳴きも落つれば
洞《ほら》円《まろ》き橋台《はしだい》のをち、
はつかにも断《き》れし雲間《くもま》に
月|黄《き》ばみ、病める笑《わら》ひす。
夜《よ》の汽車の重きとどろき。
凄まじき驟雨《しゆうう》のまへを、
黒烟《くろけぶり》深《ふか》き峡《はざま》は
一面《いちめん》に血潮ながれて、
いま赤く人|轢《し》くけしき。
稲妻す。――嗚呼|夜《よ》は一時《いちじ》。
[#地付き]三十九年九月
解纜
解纜《かいらん》す、大船《たいせん》あまた。――
ここ肥前《ひぜん》長崎港《ながさきかう》のただなかは
長雨《ながあめ》ぞらの幽闇《いうあん》に海《うな》づら鈍《にぶ》み、
悶々《もんもん》と檣《ほばしら》けぶるたたずまひ、
鎖《くさり》のむせび、帆のうなり、伝馬《てんま》のさけび、
あるはまた阿蘭船《おらんせん》なる黒奴《くろんぼ》が
気《き》も狂《くる》ほしき諸ごゑに、硝子《がらす》切る音《おと》、
うち湿《しめ》り――嗚呼《ああ》午後《ごご》七時――ひとしきり、落居《おちゐ》ぬ騒擾《さやぎ》。
解纜《かいらん》す、大船あまた。
あかあかと日暮《にちぼ》の街《まち》に吐血《とけつ》して
落日《らくじつ》喘《あへ》ぐ寂寥《せきれう》に鐘鳴りわたり、
陰々《いんいん》と、灰色《はいいろ》重き曇日《くもりび》を
死を告《つ》げ知らすせはしさに、響は絶《た》えず
天主《てんしゆ》より。――闇
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