澹《あんたん》として二列《ふたならび》、
海波《かいは》の鳴咽《おえつ》、赤《あか》の浮標《うき》、なかに黄《き》ばめる
帆は瘧《ぎやく》に――嗚呼《ああ》午後七時――わなわなとはためく恐怖《おそれ》。
解纜《かいらん》す、大船《たいせん》あまた。――
黄髪《わうはつ》の伴天連《ばてれん》信徒《しんと》蹌踉《さうらう》と
闇穴道《あんけつだう》を磔《はりき》負ひ駆《か》られゆくごと
生《なま》ぬるき悔《くやみ》の唸《うなり》順々《つぎつぎ》に、
流るる血しほ黒煙《くろけぶ》り動揺《どうえう》しつつ、
印度、はた、南蛮《なんばん》、羅馬、目的《めど》はあれ、
ただ生涯《しやうがい》の船がかり、いづれは黄泉《よみ》へ
消えゆくや、――嗚呼《ああ》午後七時――鬱憂《うついう》の心の海に。
[#地付き]三十九年七月
日ざかり
嗚呼《ああ》、今《いま》し午砲《ごはう》のひびき
おほどかにとどろきわたり、
遠近《をちこち》の汽笛《きてき》しばらく
饑《う》うるごと呻《うめ》きをはれば、
柳原《やなぎはら》熱《あつ》き街衢《ちまた》は
また、もとの沈黙《しじま》にかへる。
河岸《かし》なみは赤き煉瓦家《れんぐわや》。
牢獄《ひとや》めく工場《こうば》の奥ゆ
印刷《いんさつ》の響《ひびき》たまたま
薄鉄葉《ブリキ》切る鋏《はさみ》の音《おと》と、
柩《ひつぎ》うつ槌と、鑢《やすり》と、
懶《もの》うげにまじりきこえぬ。
片側《かたかは》の古衣屋《ふるぎや》つづき、
衣紋掛《えもんかけ》重き恐怖《おそれ》に
肺《はひ》やみの咳《しはぶき》洩《も》れて、
饐《す》えてゆく物のいきれに、
陰湿《いんしつ》のにほひつめたく
照り白《しら》み、人は黙坐《もくざ》す。
ゆきかへり、やをら、電気車《でんきしや》
鉛《なまり》だつ体《たい》をとどめて
ぐどぐどとかたみに語り、
鬱憂《うついう》の唸《うなり》重げに
また軋《きし》る、熱《あつ》く垂れたる
ひた赤《あか》き満員《まんゐん》の札《ふだ》。
恐ろしき沈黙《しじま》ふたたび
酷熱《こくねつ》の日ざしにただれ、
ぺんき塗《ぬり》褪《さ》めし看板《かんばん》
毒《どく》滴《た》らし、河岸《かし》のあちこち
ちぢれ毛《げ》の痩犬《やせいぬ》見えて
苦《くる》しげに肉《にく》を求食《あさ》りぬ。
油《あぶら》うく線路《レエル》の正面《まとも》、
鉄《てつ》重《おも》き橋の構《かまへ》に
雲ひとつまろがりいでて
くらくらとかがやく真昼《まひる》、
汗《あせ》ながし、車|曳《ひ》きつつ
匍匐《は》ふがごと撒水夫《みづまき》きたる。
[#地付き]三十九年九月
軟風
ゆるびぬ、潤《うる》む罌粟《けし》の火は
わかき瞳の濡色《ぬれいろ》に。
熟視《みつ》めよ、ゆるる麦の穂の
たゆらの色のつぶやきを。
たわやになびく黒髪の
君の水脈《みを》こそ身に翻《あふ》れ。――
うかびぬ、消えぬ、火の雫《しづく》
匂の海のたゆたひに。
ふとしも歎《なげ》く蝶のむれ
ころりんころと……頬《ほ》のほめき、
触《ふ》るる吐息《といき》に縺《もつ》るれば、
色も、にほひも、つぶやきも、
同じ音色《ねいろ》の揺曳《ゆらびき》に
倦《うん》じぬ、かくて君が目も。――
あはれ、皐月《さつき》の軟風《なよかぜ》に
ゆられてゆめむわがおもひ。
[#地付き]四十年六月
大寺
大寺《おほてら》の庫裏《くり》のうしろは、
枇杷あまた黄金《こがね》たわわに、
六月の天《そら》いろ洩るる
路次《ろじ》の隅、竿《さを》かけわたし
皮交り、襁褓《むつき》を乾《ほ》せり。
そのかげに穢《むさ》き姿《なり》して
面子《めんこ》うち、子らはたはぶれ、
裏店《うらだな》の洗流《ながし》の日かげ、
顔青き野師《やし》の女房ら
首いだし、煙草吸ひつつ、
鈍《にぶ》き目に甍《いらか》あふぎて、
はてもなう罵りかはす。
凋《しを》れたるもののにほひは
溝板《どぶいた》の臭気《くさみ》まじりに
蒸し暑《あつ》く、いづこともなく。
赤黒き肉屋の旗は
屋根越に垂れて動かず。
はや十時、街《まち》の沈黙《しじま》を
しめやかに沈《ぢん》の香しづみ、
しらじらと日は高まりぬ。
[#地付き]三十九年八月
ひらめき
十月《じふぐわつ》のとある夜《よ》の空。
北国《ほつこく》の郊野《かうや》の林檎
実《み》は赤く梢《こずゑ》にのこれ、
はや、里の果物採《くだものとり》は
影絶えぬ、遠く灯《ひ》つけて
ただ軋《きし》る耕作《かうさく》ぐるま。
鬱憂《うついう》に海は鈍《にば》みて
闇澹《あんたん》と氷雨《ひさめ》やすらし。
灰《はひ》濁《だ》める暮雲《ぼうん》のかなた
血紅《けつこう》の火花《ひばな》ひらめき
燦《さん》として音《おと》なく消えぬ。
沈痛《ちんつう》の呻吟《うめき》この時、
闇重き夜色《やしよく》のなかに
蓬髪《ほうはつ》の男|蹌踉《よろめ》き
落涙《らくるゐ》す、蒼白《あをじろ》き頬《ほ》に。
[#地付き]三十九年八月
立秋
憂愁《いうしう》のこれや野の国、
柑子《かうじ》だつ灰色のすゑ
夕汽車《ゆふぎしや》の遠音《とほね》もしづみ、
信号柱《シグナル》のちさき燈《ともしび》
淡々《あはあは》とみどりにうるむ。
ひとしきり、小野《をの》に細雲《ほそぐも》。
南瓜畑《かぼちやばた》北へ練《ね》りゆく
旗赤き異形《ゐぎやう》の列《れつ》は
戯《おど》けたる広告《ひろめ》の囃子《はやし》
賑《にぎ》やかに遠くまぎれぬ。
うらがなし、落日《いりひ》の黄金《こがね》
片岡《かたおか》の槐《ゑんじゆ》にあかり、
鳴きしきる蜩《かなかな》、あはれ
誰《たれ》葬《はふ》るゆふべなるらむ。
[#地付き]三十九年八月
玻璃罎
うすぐらき窖《あなぐら》のなか、
瓢状《ひさごなり》、なにか湛《たた》へて、
十《とを》あまり円《まろ》うならべる
夢《ゆめ》いろの薄《うす》ら玻璃罎《はりびん》。
静《しづ》けさや、靄《もや》の古《ふる》びを
黄蝋《わうらふ》は燻《くゆ》りまどかに
照りあかる。吐息《といき》そこ、ここ、
哀楽《あいらく》のつめたきにほひ。
今《いま》しこそ、ゆめの歓楽《くわんらく》
降《ふ》りそそげ。生命《いのち》の脈《なみ》は
ゆらぎ、かつ、壁にちらほら
玻璃《はり》透《す》きぬ、赤き火の色。
[#地付き]三十九年八月
微笑
朧月《ろうげつ》か、眩《まば》ゆきばかり
髪むすび紅《あか》き帯して
あらはれぬ、春夜《しゆんや》の納屋《なや》に
いそいそと、あはれ、女子《をみなご》。
あかあかと据《す》ゑし蝋燭《らふそく》
薔薇《さうび》潮《さ》す片頬《かたほ》にほてり、
すずろけば夜霧《よぎり》火のごと、
いづこにか林檎《りんご》のあへぎ。
嗚呼《ああ》愉楽《ゆらく》、朱塗《しゆぬり》の樽《たる》の
差口《だぶす》抜き、酒つぐわかさ、
玻璃器《ぎやまん》に古酒《こしゆ》の薫香《かをりか》
なみなみと……遠く人ごゑ。
やや暫時《しばし》、瞳かがやき、
髪かしげ、微笑《ほほゑ》みながら
なに紅《あか》む、わかき女子《をみなご》。
母屋《もや》にまた、おこる歓語《さざめき》……
[#地付き]三十九年八月
砂道
日の真昼《まひる》、ひとり、懶《ものう》く
真白なる砂道《さだう》を歩む。
市《いち》遠く赤き旗見ゆ、
風もなし。荒蕪地《かうぶち》つづき、
廃《すた》れ立つ礎《いしずゑ》燃《も》えて
烈々《れつれつ》と煉瓦《れんぐわ》の火気《くわき》に
爛《ただ》れたる果実《くわじつ》のにほひ
そことなく漂《ただよ》湿《しめ》る。
数百歩、娑婆《しやば》に音なし。
ふと、空に苦熱《くねつ》のうなり、
見あぐれば、名しらぬ大樹《たいじゆ》
千万《ちよろづ》の羽音《はおと》に糜《しら》け、
鈴状《すずなり》に熟《う》るる火の粒
潤《しめ》やかに甘き乳《ち》しぶく。
楽欲《げうよく》の渇《かわき》たちまち
かのわかき接吻《くちつけ》思ひ、
目ぞ暈《くら》む。
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真夏の原に
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真白《ましろ》なる砂道《さだう》とぎれて
また続く恐怖《おそれ》の日なか、
寂《せき》として過《よ》ぎる人なし。
[#地付き]三十九年八月
凋落
寂光土《じやくくわうど》、はたや、墳塋《おくつき》、
夕暮《ゆふぐれ》の古き牧場《まきば》は
なごやかに光黄ばみて
うつらちる楡《にれ》の落葉《らくえふ》、
そこ、かしこ。――暮秋《ぼしう》の大日《おほひ》
あかあかと海に沈めば、
凋落《てうらく》の市《いち》に鐘鳴り、
絡繹《らくえき》と寺門《じもん》をいづる
老若《らうにやく》の力《ちから》なき顔、
あるはみな青き旗垂れ
灰《はひ》濁《だ》める水路《すゐろ》の靄に
寂寞《じやくまく》と繋《かか》る猪木舟《ちよきぶね》、
店々の装飾《かざり》まばらに、
甃石《いしだたみ》ちらほら軋る
空《から》ぐるま、寒き石橋。――
鈍《にぶ》き眼《め》に頭《かしら》もたげて
黄牛《あめうし》よ、汝《な》はなにおもふ。
[#地付き]三十九年八月
晩秋
神無月、下浣《すゑ》の七日《しちにち》、
病《や》ましげに落日《いりひ》黄ばみて
晩秋《ばんしう》の乾風《からかぜ》光り、
百舌《もず》啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の上枝《ほづえ》を
実はひとつ赤く落ちたり。
刹那《せつな》、野を北へ人霊《ひとだま》、
鉦《かね》うちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる夕《ゆふべ》に。
[#地付き]三十九年五月
あかき木の実
暗《くら》きこころのあさあけに、
あかき木《こ》の実《み》ぞほの見ゆる。
しかはあれども、昼はまた
君といふ日にわすれしか。
暗《くら》きこころのゆふぐれに、
あかき木《こ》の実《み》ぞほの見ゆる。
[#地付き]四十年十月
かへりみ
みかへりぬ、ふたたび、みたび、
暮れてゆく幼《をさな》の歩《あゆみ》
なに惜《をし》みさしもたゆたふ。
あはれ、また、野辺《のべ》の番紅花《さふらん》
はやあかきにほひに満つを。
[#地付き]四十年十二月
なわすれぐさ
面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ぎぬ》のにほひに洩《も》れて、
その眸《ひとみ》すすり泣くとも、――
空《そら》いろに透《す》きて、葉かげに
今日《けふ》も咲く、なわすれの花。
[#地付き]四十一年五月
わかき日の夢
水《みづ》透《す》ける玻璃《はり》のうつはに、
果《み》のひとつみづけるごとく、
わが夢は燃《も》えてひそみぬ。
ひややかに、きよく、かなしく。
[#地付き]四十一年五月
よひやみ
うらわかきうたびとのきみ、
よひやみのうれひきみにも
ほの沁むや、青みやつれて
木のもとに、みればをみなも。
な怨みそ。われはもくせい、
ほのかなる花のさだめに、
目見《まみ》しらみ、うすらなやめば
あまき香《か》もつゆにしめりぬ。
さあれ、きみ、こひのうれひは
よひのくち、それもひととき、
かなしみてあらばありなむ、
われもまた。――月はのぼれり。
[#地付き]三十九年四月
一瞥
大月《たいげつ》は赤くのぼれり。
あら、青む最愛《さいあい》びとよ。
へだてなき恋の怨言《かごと》は
見るが間《ま》に朽ちてくだけぬ。
こは人か、
何らの色《いろ》ぞ、
凋落《てうらく》の鵠《くぐひ》か、鷭《ばん》か。
後《しりへ》より、
冷笑《れいせう》す、あはれ、一瞥《いちべつ》。
我《われ》、こころ君を殺《ころ》しき。
[#地付き]三十九年七月
旅情
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――さすらへるミラノひとのうた。
[#ここで字下げ終わり]
零落《れいらく》の宿泊《やどり》はやすし。
海ちかき下層《した》の小部屋《こべや》は、
ものとなき鹹《しほ》の汚《よ》ごれに、
煤《すす》けつつ匂《にほ》ふ壁紙《かべがみ》。
広重《ひろしげ》の名をも思《おもひ》出づ。
ほどちか
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