き庖厨《くリや》のほてり、
絵草子《ゑざうし》の匂《にほひ》にまじり
物《もの》あぶる騒《さや》ぎこもごも、
焼酎《せうちう》のするどき吐息《といき》
針《はり》のごと肌《はだ》刺《さ》す夕《ゆふべ》。

ながむれば葉柳《はやなぎ》つづき、
色硝子《いろがらす》濡《ぬ》るる巷《こうぢ》を、
横浜《はま》の子が智慧《ちゑ》のはやさよ、
支那料理《しなれうり》、よひの灯影《ほかげ》に
みだらうたあはれに歌《うた》ふ。

ややありて月はのぼりぬ。
清らなる出窓《でまど》のしたを
からころと軋《きし》む櫓《ろ》の音《おと》。
鉄格子《てつかうし》ひしとすがりて
黄金髪《こがねがみ》わかきをおもふ。

数《かず》おほき罪に古《ふ》りぬる
初恋《はつこひ》のうらはかなさは
かかる夜《よ》の黒《くろ》き波間《なみま》を
舟《ふな》かせぎ、わたりさすらふ
わかうどが歌《うた》にこそきけ。

色《いろ》ふかき、ミラノのそらは
日本《ひのもと》のそれと似《に》たれど、
ここにして摘《つ》むによしなき
素馨《ジエルソミノ》、海のあなたに
接吻《くちつけ》のかなしきもあり。

国を去り、昨《きそ》にわかれて
逃《のが》れ来し身にはあれども、
なほ遠く君をしぬべば、
ほうほう……と笛はうるみて、
いづらへか、黒船《くろふね》きゆる。

廊下《らうか》ゆく重き足音《あしおと》。
みかへれば暗《くら》きひと間《ま》に
残《のこ》る火は血のごと赤く、
腐《くさ》れたる林檎《りんご》のにほひ、
そことなく涙をさそふ。
[#地付き]三十九年九月


  柑子

蕭《しめ》やかにこの日も暮《く》れぬ、北国《きたぐに》の古き旅籠屋《はたごや》。
物《もの》焙《あ》ぶる炉《ゐろり》のほとり頸《うなじ》垂れ愁《うれ》ひしづめば
漂浪《さすらひ》の暗《くら》き山川《やまかは》そこはかと。――さあれ、密《ひそ》かに
物ゆかし、わかき匂《にほひ》のいづこにか濡れてすずろぐ。

女《め》あるじは柴《しば》折り燻《くす》べ、自在鍵《じざいかぎ》低《ひく》くすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顔して旅《たび》語る商人《あきうど》ふたり。
傍《かたへ》より、笑《ゑ》みて静かに籠《かたみ》なる木の実|撰《え》りつつ、
家《いへ》の子は卓《しよく》にならべぬ。そのなかに柑子《かうじ》の匂《にほひ》。

ああ、柑子《かうじ》、黄金《こがね》の熱味《ほてり》嗅《か》ぎつつも思ひぞいづる。
晩秋《おそあき》の空ゆく黄雲《きぐも》、畑《はた》のいろ、見る眼《め》のどかに
夕凪《ゆふなぎ》の沖に帆あぐる蜜柑《みかん》ぶね、暮れて入る汽笛《ふえ》。
温かき南の島の幼子《をさなご》が夢のかずかず。

また思ふ、柑子《かうじ》の店《たな》の愛想《あいそ》よき肥満《こえ》たる主婦《あるじ》、
あるはまた顔もかなしき亭主《つれあひ》の流《なが》す新内《しんない》、
暮《く》れゆけば紅《あか》き夜《よ》の灯《ひ》に蒸《む》し薫《く》ゆる物の香《か》のなか、
夕餉時《ゆふげどき》、街《まち》に入り来《く》る旅人がわかき歩みを。

さては、われ、岡の木《こ》かげに夢心地《ゆめここち》、在《あ》りし静けさ
忍ばれぬ。目籠《めがたみ》擁《かか》へ、黄金《こがね》摘《つ》み、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に鈴《すず》の清《すず》しき、鳴りひびく沈黙《しじま》の声音《いろね》。

柴《しば》はまた音《おと》して爆《は》ぜぬ、燃《も》えあがる炎《ほのほ》のわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫《かをり》のなかに、
箸とりて笑《ゑ》らぐ赤ら頬《ほ》、夕餉《ゆふげ》盛《も》る主婦《あるじ》、家の子、
皆、古き喜劇《きげき》のなかの姿《すがた》なり。涙ながるる。
[#地付き]三十九年五月


  内陣

[#ここから2字下げ]
ほのかなる香炉《かうろ》のくゆり、
日のにほひ、燈明《みあかし》のかげ、――
[#ここで字下げ終わり]

文月《ふづき》のゆふべ、蒸し薫《くゆ》る三十三間堂《さんじふさんげんだう》の奥《おく》
空色《そらいろ》しづむ内陣《ないぢん》の闇ほのぐらき静寂《せいじやく》に、
千一体《せんいつたい》の観世音《くわんぜおん》かさなり立たす香《か》の古《ふる》び
いと蕭《しめ》やかに後背《こうはい》のにぶき列《つらね》ぞ白《しら》みたる。

[#ここから2字下げ]
いづちとも、いつとも知らに、
かすかなる素足《すあし》のしめり。

そと軋《きし》むゆめのゆかいた
なよらかに、はた、うすらかに。

ほのめくは髪のなよびか、
衣《きぬ》の香《か》か、えこそわかたね。

女子《をみなご》の片頬《かたほ》のしらみ
忍びかの息《いき》の香《か》ぞする。

舞ごろも近づくなべに、
うつらかにあかる薄闇《うすやみ》。

初恋の燃《も》ゆるためいき、
帯の色、身内《みうち》のほてり。
[#ここで字下げ終わり]

だらり[#「だらり」に傍点]の姿《すがた》おぼろかになまめき薫《く》ゆる舞姫《まひひめ》の
ほのかに今《いま》したたずめば、本尊仏《ほんぞんぶつ》のうすあかり
静《しづ》かなること水のごと沈《しづ》みて匂ふ香《か》のそらに、
仰《あふ》ぐともなき目見《まみ》のゆめ、やはらに涙さそふ時《とき》。

[#ここから2字下げ]
甍《いらか》より鴿《はと》か立ちけむ、
はたはたとゆくりなき音《ね》に。

ふとゆれぬ、長《たけ》の振袖《ふりそで》
かろき緋《ひ》のひるがへりにぞ、

ほのかなる香炉《かうろ》のくゆり、
日のにほひ、燈明《みあかし》のかげ、――

もろもろの光はもつれ、
あな、しばし、闇にちらぼふ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]四十年七月


  懶き島

明けぬれどものうし。温《ぬる》き土《つち》の香を
軟風《なよかぜ》ゆたにただ懈《たゆ》く揺《ゆ》り吹くなべに、
あかがねの淫《たはれ》の夢ゆのろのろと
寝恍《ねほ》れて醒《さ》むるさざめ言《ごと》、起《た》つもものうし。

眺むれどものうし、のぼる日のかげも、
大海原《おおうなばら》の空|燃《も》えて、今日《けふ》も緩《ゆる》ゆる
縦《たて》にのみ湧《わ》くなる雲の火のはしら
重《おも》げに色もかはらねば見るもものうし。

行きぬれどものうし、波ののたくりも、
懈《たゆ》たき砂もわが悩《なやみ》ものうければぞ、
信天翁《あはうどり》もそろもそろの吐息《といき》して
終日《ひねもす》うたふ挽歌《もがりうた》きくもものうし。

寝《ね》そべれどものうし、円《まろ》に屯《たむろ》して
正覚坊《しやうがくばう》の痴《しれ》ごこち、日を嗅《か》ぎながら
女らとなすこともなきたはれごと、
かくて抱けど、飽《あ》きぬれば吸ふもものうし。

貪《むさぼ》れどものうし、椰子《やし》の実《み》の酒も、
あか裸《はだか》なる身の倦《た》るさ、酌《く》めども、あほれ、
懶怠《をこたり》の心の欲《よく》のものうげさ。
遠雷《とほいかづち》のとどろきも昼はものうし。

暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、
益《えう》なし、あるは木を擦《す》りて火ともすわざも。
空腹《ひだるげ》の心は暗《くら》きあなぐらに
蝮《はみ》のうねりのにほひなし、入れどものうし。

ああ、なべてものうし、夜《よる》はくらやみの
濁れる空に、熟《う》みつはり落つる実のごと
流星《すばるぼし》血を引き消ゆるなやましさ。
一人《ひとり》ならねど、とろにとろ、寝《ね》れどものうし。
[#地付き]四十年十二月


  灰色の壁

灰色《はいいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色《いろ》。
臘月《らふげつ》の十九日《じふくにち》、
丑満《うしみつ》の夜《よ》の館《やかた》。
龕《みづし》めく唐銅《からかね》の櫃《ひつ》の上《うへ》、
燭《しよく》青うまじろがずひとつ照《て》る。
時にわれ、朦朧《もうろう》と黒衣《こくえ》して
天鵝絨《びろうど》のもの鈍《にぶ》き床《ゆか》に立ち、
ひたと身は鉄《てつ》の屑《くず》
磁石《じしやく》にか吸はれよる。
足はいま釘《くぎ》つけに痺《しび》れ、かの
黄泉《よみ》の扉《と》はまのあたり額《ぬか》を圧《お》す。

灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色《いろ》。
暗澹《あんたん》と燐《りん》の火し
奈落《ならく》へか虚《うつろ》する。
表面《うはべ》ただ古地図《ふるちづ》に似て煤《すす》け、
縦横《たてよこ》にかず知れず走る罅《ひび》
青やかに火光《あかり》吸ひ、じめじめと
陰湿《いんしつ》の汗《あせ》うるみ冷《ひ》ゆる時、
鉄《てつ》の気《き》はうしろより
さかしまに髪を梳《す》く。
はと竦《すく》む節々《ふしふし》の凍《こほ》る音《おと》。
生きたるは黒漆《こくしつ》の瞳のみ。

灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色《いろ》。
熟視《みつ》む、いま、あるかなき
一点《いつてん》の血の雫《しづく》。
朱《しゆ》の鈍《にば》み星のごと潤味《うるみ》帯《お》び
光る。聞く、この暗き壁ぶかに
くれなゐの皷《つづみ》うつ心《しん》の臓《ざう》
刻々《こくこく》にあきらかに熱《ほて》り来《く》れ。
血けぶり。刹那《せつな》ほと
かすかなる人の息《いき》。
みるがまに罅《ひび》はみなつやつやと
金髪《きんぱつ》の千筋《ちすぢ》なし、さと乱《みだ》る。

灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色。
なほ熟視《みつ》む。……髣髴《はうふつ》と
浮びいづ、女の頬《ほ》
大理石《なめいし》のごと腐《くさ》れ、仰向《あふの》くや
鼻《はな》冷《ひ》えてほの笑《わら》ふちひさき歯
しらしらと薄玻璃《うすはり》の音《ね》を立つる。
眼《め》をひらく。絶望《ぜつまう》のくるしみに
手はかたく十字《じふじ》拱《く》み、
みだらなる媚《こび》の色
きとばかり。燭《しよく》の火の青み射《さ》し、
銀色《ぎんいろ》の夜《よ》の絹衣《すずし》ひるがへる。

灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐《おそ》ろしき一面《いちめん》の壁《かべ》の色《いろ》。
『彼。』とわが憎悪心《ぞうをしん》

むらむらとうちふるふ。
一斉《いつせい》に冷血《れいけつ》のわななきは
釘《くぎ》つけの身を逆《さか》にゑぐり刺《さ》す。
ぎく[#「ぎく」に傍点]と手は音《おと》刻《きざ》み、節《ふし》ごとに
機械《からくり》のごと動《うご》く。いま怪《あや》し、
おぼえあるくらがりに
落ちちれる埴《はに》と鏝《こて》。
つ[#「つ」に傍点]と取るや、ひとつ当《あ》て、左《ひだり》より
額《ぬか》をまづひしひしと塗《ぬ》りつぶす。

灰色《はひいろ》の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色。
朱《しゆ》のごとき怨念《をんねん》は
燃《も》え、われを凍《こほ》らしむ。
刹那《せつな》、かの驕《おご》りたる眼鼻《めはな》ども
胸かけて、生《なま》ぬるき埴《はに》の色
ひと息に鏝《こて》の手に葬《はうむ》られ
生《い》きながら苦《くる》しむか、ひくひくと
うち皺む壁の罅《ひび》、
今、暗き他界《たかい》より
凄きまで面《おも》変《かは》り、人と世を
呪《のろ》ふにか、すすりなき、うめきごゑ。

灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色。
悪業《あくごふ》の終《をは》りたる
時に、ふとわれの手は
物|握《にぎ》るかたちして見出《みいだ》さる。
ながむれば埴《はに》あらず、鏝《こて》もなし。
ただ暗き壁の面《おも》冷々《ひえびえ》と、
うは湿《しめ》り、一点《いつてん》の血ぞ光る。
前《さき》の世の恋か、なほ
骨髄《こつずゐ》に沁みわたる
この怨恨《うらみ》、この呪咀《のろひ》、まざまざと
人ひとり幻影《まぼろし》に殺したる。

灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色《いろ》。

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