或《あるひ》は仄《ほの》の水鳥《みづとり》のそことしもなき音《ね》のうれひ、
河岸《かし》の氷室《ひむろ》の壁も、はた、ただに真昼の
白蝋《はくらふ》の冷《ひや》みの沈黙《しじま》。

かくてただ悩《なや》む吊橋《つりはし》、
なべてみな真白き水《み》の面《も》、はた、光、
ただにたゆたふ眩暈《くるめき》の、恐怖《おそれ》の、仄《ほの》の哀愁《かなしみ》の
銀《ぎん》の真昼《まひる》に、色重き鉄《てつ》のにほひぞ
鬱憂《うついう》に吊られ圧《お》さるる。

鋼鉄《かうてつ》のにほひに噎《むせ》び、
絶えずまた直裸《ひたはだか》なる男の子
真白《ましろ》に光り、ひとならび、力《ちから》あふるる面《おもて》して
柵《さく》の上より躍《をど》り入る、水の飛沫《しぶき》や、
白金《はつきん》に濡《ぬ》れてかがやく。

真白《ましろ》なる真夏《まなつ》の真昼《まひる》。
汗《あせ》滴《した》るしとどの熱《ねつ》に薄曇《うすくも》り、
暈《くら》みて歎《なげ》く吊橋のにほひ目当《めあて》にたぎち来る
小蒸汽船《こじようきせん》の灰《はひ》ばめる鈍《にぶ》き唸《うなり》や、
日は光り、煙うづまく。
[#地付き]四十一年八月


  硝子切るひと

君は切る、
色あかき硝子《がらす》の板《いた》を。
落日《いりひ》さす暮春《ぼしゆん》の窓に、
いそがしく撰《えら》びいでつつ。

君は切る、
金剛《こんがう》の石のわかさに。

茴香酒《アブサン》のごときひとすぢ
つと引きつ、切りつ、忘れつ。

君は切る、
色あかき硝子《がらす》の板を。

君は切る、君は切る。
[#地付き]四十年十二月


   悪の窓 断篇七種


   一 狂念

あはれ、あはれ、
青白《あをじろ》き日の光西よりのぼり、
薄暮《くれがた》の灯のにほひ昼もまた点《とも》りかなしむ。

わが街《まち》よ、わが窓よ、なにしかも焼酎《せうちう》叫《さけ》び、
鶴嘴《つるはし》のひとつらね日に光り悶《もだ》えひらめく。

汽車《きしや》ぞ来《く》る、汽車《きしや》ぞ来《く》る、真黒《まくろ》げに夢とどろかし、
窓もなき灰色《はひいろ》の貨物輌《くわもつばこ》豹《へう》ぞ積みたる。
あはれ、はや、焼酎《せうちう》は醋《す》とかはり、人は轢《し》かれて、
盲《めし》ひつつ血に叫ぶ豹《へう》の声|遠《とほ》に泡《あわ》立つ。

   二 疲れ

あはれ、いま暴《あら》びゆく接吻《くちつけ》よ、肉《ししむら》の曲《きよく》。……

かくてはや青白く疲《つか》れたる獣《けもの》の面《おもて》
今日《けふ》もまた我《われ》見据《みす》ゑ、果敢《はか》なげに、いと果敢《はか》なげに、
色|濁《にご》る窓《まど》硝子《がらす》外面《とのも》より呪《のろ》ひためらふ。

いづこにかうち狂《くる》ふ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロンよ、わが唇《くちびる》よ、
身をも燬《や》くべき砒素《ひそ》の壁《かべ》夕日さしそふ。

   三 薄暮の負傷

血潮したたる。

薄暮《くれがた》の負傷《てきず》なやまし、かげ暗《くら》き溝《みぞ》のにほひに、
はた、胸に、床《ゆか》の鉛《なまり》に……

さあれ、夢には列《つら》なめて駱駝《らくだ》ぞ過《す》ぐる。
埃及《えじぷと》のカイロの街《まち》の古煉瓦《ふるれんが》
壁のひまには砂漠《さばく》なるオアシスうかぶ。
その空にしたたる紅《あか》きわが星よ。……

血潮したたる。

   四 象のにほひ

日をひと日。
日をひと日。

日をひと日、光なし、色も盲《めし》ひて
ふくだめる、はた、病《や》めるなやましきもの
※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]ふたぎ※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]ふたぎ気倦《けだ》るげに唸《うな》りもぞする。

あはれ、わが幽鬱《いううつ》の象《ざう》
亜弗利加《あふりか》の鈍《にぶ》きにほひに。

日をひと日。
日をひと日。

   五 悪のそびら

おどろなす髪の亜麻色《あさいろ》
背《そびら》向け、今日《けふ》もうごかず、
さあれ、また、絶えずほつほつ
息しぼり『死』にぞ吹くめる、
血のごとき石鹸《しやぼん》の珠《たま》を。

   六 薄暮の印象

うまし接吻《くちつけ》……歓語《さざめごと》……

さあれ、空には眼《め》に見えぬ血潮《ちしほ》したたり、
なにものか負傷《てお》ひくるしむ叫《さけび》ごゑ、
など痛《いた》む、あな薄暮《くれがた》の曲《きよく》の色、――光の沈黙《しじま》。

うまし接吻《くちつけ》……歓語《さざめごと》……

   七 うめき

暮《く》れゆく日、血に濁る床《ゆか》の上にひとりやすらふ。
街《まち》しづみ、※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]しづみ、わが心もの音《おと》もなし。

載《の》せきたる板硝子《いたがらす》過《す》ぐるとき車|燬《や》きつつ
落つる日の照りかへし、そが面《おもて》噎びあかれば
室内《むろぬち》の汚穢《けがれ》、はた、古壁に朽ちし鉞《まさかり》
一斉《ひととき》に屠《はふ》らるる牛の夢くわとばかり呻《うめ》き悶《もだ》ゆる。

街《まち》の子は戯《たはむ》れに空虚《うつろ》なる乳《ち》の鑵《くわん》たたき、
よぼよぼの飴売《あめうり》は、あなしばし、ちやるめらを吹く。

くわとばかり、くわとばかり、
黄《き》に光る向《むか》ひの煉瓦《れんぐわ》
くわとばかり、あなしばし。――
[#地付き]悪の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54] 畢――四十一年二月


  蟻

おほらかに、
いとおほらかに、
大《おほ》きなる鬱金《うこん》の色の花の面《おも》。

日は真昼《まひる》、
時は極熱《ごくねつ》、
ひたおもて日射《ひざし》にくわつ[#「くわつ」に傍点]と照りかへる。

時に、われ
世《よ》の蜜《みつ》もとめ
雄蕋《ゆうずゐ》の林の底をさまよひぬ。

光の斑《ふ》
燬《や》けつ、断《ちぎ》れつ、
豹《へう》のごと燃《も》えつつ湿《し》める径《みち》の隈《くま》。

風吹かず。
仰ふげば空《そら》は
烈々《れつれつ》と鬱金《うこん》を篩《ふる》ふ蕋《ずゐ》の花。

さらに、聞く、
爛《ただ》れ、饐《す》えばみ、
ふつふつ[#「ふつふつ」に傍点]と苦痛《くつう》をかもす蜜の息。

楽欲《げうよく》の
極みか、甘き
寂寞《じやくまく》の大光明《だいくわうみやう》、に喘《あへ》ぐ時。

人界《にんがい》の
七谷《ななたに》隔《へだ》て、
丁々《とうとう》と白檀《びやくだん》を伐《う》つ斧《をの》の音《おと》。
[#地付き]四十年三月


  華のかげ

時《とき》は夏、血のごと濁《にご》る毒水《どくすゐ》の
鰐《わに》住む沼《ぬま》の真昼時《まひるどき》、夢ともわかず、
日に嘆《なげ》く無量《むりやう》の広葉《ひろは》かきわけて
ほのかに青き青蓮《せいれん》の白華《しらはな》咲けり。

[#ここから1字下げ]
ここ過《よ》ぎり街《まち》にゆく者、――
婆羅門《ばらもん》の苦行《くぎやう》の沙門《しやもん》、あるはまた
生皮《なまかわ》漁《あさ》る旃陀羅《せんだら》が鈍《にぶ》き刃《は》の色、
たまたまに火の布《きれ》巻ける奴隷《しもべ》ども
石油《せきゆ》の鑵《くわん》を地に投《な》げて鋭《するど》に泣けど、
この旱《ひでり》何時《いつ》かは止《や》まむ。これやこれ、
饑《うゑ》に堕《お》ちたる天竺《てんぢく》の末期《まつご》の苦患《くげん》。
見るからに気候風《きこうふう》吹く空《そら》の果《はて》
銅色《あかがねいろ》のうろこ雲|湿潤《しめり》に燃《りも》えて
恒河《ガンヂス》の鰐《わに》の脊《せ》のごとはらばへど、
日は爛《ただ》れ、大地《たいち》はあはれ柚色《ゆずいろ》の
熱黄疸《ねつわうだん》の苦痛《くるしみ》に吐息《といき》も得せず。

この恐怖《おそれ》何に類《たぐ》へむ。ひとみぎり
地平《ちへい》のはてを大象《たいざう》の群《むれ》御《ぎよ》しながら
槍《やり》揮《ふる》ふ土人《どじん》が昼の水かひも
終《を》へしか、消ゆる後姿《うしろで》に代《かは》れる列《れつ》は
こは如何《いか》に殖民兵《しよくみんへい》の黒奴《ニグロ》らが
喘《あへ》ぎ曳き来る真黒《まくろ》なる火薬《くわやく》の車輌《くるま》
掲《かか》ぐるは危嶮《きけん》の旗の朱《しゆ》の光
絶えず饑《う》ゑたる心臓《しんざう》の呻《うめ》くに似たり。
[#ここで字下げ終わり]

さはあれど、ここなる華《はな》と、円《まろ》き葉の
あはひにうつる色、匂《にほひ》、青みの光、
ほのほのと沼《ぬま》の水面《みのも》の毒の香も
薄《うす》らに交《まじ》り、昼はなほかすかに顫《ふる》ふ。
[#地付き]四十年十二月


  幽閉

色|濁《にご》るぐらすの戸《と》もて
封《ふう》じたる、白日《まひるび》の日のさすひと間《ま》、
そのなかに蝋《らふ》のあかりのすすりなき。

いましがた、蓋《ふた》閉《とざ》したる風琴《オルガン》の忍《しの》びのうめき。
そがうへに瞳《ひとみ》盲《し》ひたる嬰児《みどりご》ぞ戯れあそぶ。
あはれ、さは赤裸《あかはだか》なる、盲《めし》ひなる、ひとり笑《ゑ》みつつ、
声たてて小さく愛《めぐ》しき生《うまれ》の臍《ほぞ》をまさぐりぬ。

物|病《や》ましさのかぎりなる室《むろ》のといきに、
をりをりは忍び入るらむ戯《おど》けたる街衢《ちまた》の囃子《はやし》、
あはれ、また、嬰児《みどりご》笑ふ。

ことこと[#「ことこと」に傍点]と、ひそかなる母のおとなひ
幾度《いくたび》となく戸を押せど、はては敲《たた》けど、
色濁る扉《とびら》はあかず。
室《むろ》の内《うち》暑く悒鬱《いぶせ》く、またさらに嬰児《みどりご》笑ふ。

かくて、はた、硝子《がらす》のなかのすすりなき
蝋《らふ》のあかりの夜《よ》を待たず尽きなむ時よ。
あはれ、また母の愁《うれひ》の恐怖《おそれ》とならむそのみぎり。

あはれ、子はひたに聴き入る、
珍《めづ》らなるいとも可笑《をか》しきちやるめらの外《そと》の一節《ひとふし》。
[#地付き]四十一年六月


  鉛の室

いんき[#「いんき」に傍点]は赤し。――さいへ、見よ、室《むろ》の腐蝕《ふしよく》に
うちにじみ倦《うん》じつつゆくわがおもひ、
暮春《ぼしゆん》の午後《ごご》をそこはかと朱《しゆ》をば引《ひ》けども。

油じむ末黒《すぐろ》の文字《もじ》のいくつらね
悲しともなく誦《ず》しゆけど、響《ひび》らぐ声《こゑ》は
※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さ》びてゆく鉛《なまり》の悔《くやみ》、しかすがに、

強《つよ》き薫《くゆり》のなやましさ、鉛《なまり》の室《むろ》は
くわとばかり火酒《ウオツカ》のごとき噎《むせ》びして
壁の湿潤《しめり》を玻璃《はり》に蒸す光の痛《いた》さ。

力《ちから》なき活字《くわつじ》ひろひの淫《たは》れ歌《うた》、
病《や》める機械《きかい》の羽《は》たたきにあるは沁み来《こ》し
新《あた》らしき紙の刷《す》られの香《か》も消《き》ゆる。

いんき[#「いんき」に傍点]や尽きむ。――はやもわがこころのそこに
聴くはただ饐《す》えに饐《す》えゆく匂《にほひ》のみ、――
はた、滓《をり》よどむ壺《つぼ》を見よ。つとこそ一人《ひとり》、

手を棚《たな》へ延《の》すより早く、とくとくと、
赤き硝子《がらす》のいんき[#「いんき」に傍点]罎《びん》傾《かた》むけそそぐ
一刹那《いつせつな》、壺《つぼ》にあふるる火のゆらぎ。

さと燃《も》えあがる間《ま》こそあれ、飜《かへ》ると見れば
手に平《ひら》む吸取紙《すひとりがみ》の骸色《かばねいろ》
爛《ただ》れぬ――あなや、血はしと[#「しと」に傍点]、と卓《しよく》に滴《したた》る。
[#地付き]四十年九月


  真昼

日は真昼《まひる》――野づかさの、寂寥《せきれう》の心《しん》の臓《ざう》にか、
ただひとつ声もなく照りかへ
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