る休息《やすらひ》の笛。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]四十一年七月
青き光
哀《あは》れ、みな悩《なや》み入る、夏の夜《よ》のいと青き光のなかに、
ほの白き鉄《てつ》の橋、洞《ほら》円《まろ》き穹窿《ああち》の煉瓦《れんぐわ》、
かげに来て米|炊《かし》ぐ泥舟《どろぶね》の鉢《はち》の撫子《なでしこ》、
そを見ると見下《みおろ》せる人々《ひとびと》が倦《う》みし面《おもて》も。
はた絶えず、悩《なや》ましの角《つの》光り電車すぎゆく
河岸《かし》なみの白き壁あはあはと瓦斯も点《とも》れど、
うち向ふ暗き葉柳《はやなぎ》震慄《わなな》きつ、さは震慄《わなな》きつ、
後《うしろ》よりはた泣くは青白き屋《いへ》の幽霊《いうれい》。
いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、
饐《す》えて病むわかき日の薄暮《くれがた》のゆめ。――
幽霊の屋《いへ》よりか洩れきたる呪《のろ》はしの音《ね》の
交響体《ジムフオニ》のくるしみのややありて交《まじ》りおびゆる。
いづこにかうち囃《はや》す幻燈《げんとう》の伴奏《あはせ》の進行曲《マアチ》、
かげのごと往来《ゆきき》する白《しろ》の衣《きぬ》うかびつれつつ、
映《うつ》りゆく絵《ゑ》のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――
そのかげに苦痛《くるしみ》の暗《くら》きこゑまじりもだゆる。
なべてみな悩《なや》み入る、夏の夜《よ》のいと青き光のなかに。――
蒸し暑《あつ》き軟《なよ》ら風《かぜ》もの甘《あま》き汗《あせ》に揺《ゆ》れつつ、
ほつほつと点《と》もれゆく水《みづ》の面《も》のなやみの燈《ともし》、
鹹《しほ》からき執《しふ》の譜《ふ》よ………み空には星ぞうまるる。
かくてなほ悩み顫《ふる》ふわかき日の薄暮《くれがた》のゆめ。――
見よ、苦《にが》き闇《やみ》の滓《をり》街衢《ちまた》には淀《よど》みとろげど、
新《あらた》にもしぶきいづる星の華《はな》――泡《あわ》のなげきに
色青き酒のごと空《そら》は、はた、なべて澄みゆく。
[#地付き]四十一年七月
樅のふたもと
うちけぶる樅《もみ》のふたもと。
薄暮《くれがた》の山の半腹《なから》のすすき原《はら》、
若草色《わかくさいろ》の夕《ゆふ》あかり濡れにぞ濡るる
雨の日のもののしらべの微妙《いみじ》さに、
なやみ幽《かす》けき Chopin《シオパン》 の楽《がく》のしたたり
やはらかに絶えず霧するにほやかさ。
ああ、さはあかれ、嗟嘆《なげかひ》の樅《もみ》のふたもと。
はやにほふ樅《もみ》のふたもと。
いつしかに色にほひゆく靄のすそ、
しみらに燃《も》ゆる日の薄黄《うすぎ》、映《うつ》らふみどり、
ひそやかに暗《くら》き夢|弾《ひ》く列並《つらなみ》の
遠《とほ》の山々《やまやま》おしなべてものやはらかに、
近《ちか》ほとりほのめきそむる歌《うた》の曲《ふし》。
ああ、はやにほへ、嗟嘆《なげかひ》の樅《もみ》のふたもと。
燃えいづる樅《もみ》のふたもと。
濡れ滴《した》る柑子《かうじ》の色のひとつらね、
深き青みの重《かさな》りにまじらひけぶる
山の端《は》の縺《もつ》れのなやみ、あるはまた
かすかに覗《のぞ》く空のゆめ、雲のあからみ、
晩夏《おそなつ》の入日《いりひ》に噎《むせ》ぶ夕《ゆふ》ながめ。
ああ、また燃《も》ゆれ、嗟嘆《なげかひ》の樅《もみ》のふたもと。
色うつる樅《もみ》のふたもと。
しめやげる葬《はふり》の曲《ふし》のかなしみの
幽《かす》かにもののなまめきに揺曳《ゆらひ》くなべに、
沈《しづ》みゆく雲の青みの階調《シムフオニヤ》、
はた、さまざまのあこがれの吐息《といき》の薫《くゆり》、
薄れつつうつらふきはの日のおびえ。
ああ、はた、響け、嵯嘆《なげかひ》の樅《もみ》のふたもと。
饐《す》え暗《くら》む樅のふたもと。
燃えのこる想《おもひ》のうるみひえびえと、
はや夜《よ》の沈黙《しじま》しのびねに弾きも絶え入る
列並《つらなみ》の山のくるしみ、ひと叢《むら》の
柑子《かうじ》の靄のおぼめきも音《ね》にこそ呻《うめ》け、
おしなべて御龕《みづし》の空《そら》ぞ饐《す》えよどむ。
ああ、見よ、悩《なや》む、嗟嘆《なげかひ》の樅《もみ》のふたもと。
暮れて立つ樅《もみ》のふたもと。
声もなき悲願《ひぐわん》の通夜《つや》のすすりなき
薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦《ほふえつ》、
いつしかに篳篥《ひちりき》あかる谷のそら、
ほのめき顫《ふる》ふ月魄《つきしろ》のうれひ沁みつつ
夢青む忘我《われか》の原の靄の色。
ああ、さは顫《ふる》へ嗟嘆《なげかひ》の樅《もみ》のふたもと。
[#地付き]四十一年二月
夕日のにほひ
晩春《おそはる》の夕日《ゆふひ》の中《なか》に、
順礼《じゆんれい》の子はひとり頬《ほ》をふくらませ、
濁《にご》りたる眼《め》をあげて管《くだ》うち吹ける。
腐《くさ》れゆく襤褸《つづれ》のにほひ、
酢《す》と石油《せきゆ》……にじむ素足《すあし》に
落ちちれる果実《くだもの》の皮、赤くうすく、あるは汚《きた》なく……
片手《かたて》には噛《かぢ》りのこせし
林檎《りんご》をばかたく握《にぎ》りぬ。
かくてなほ頬《ほ》をふくらませ
怖《おづ》おづと吹きいづる………珠《たま》の石鹸《しやぼん》よ。
さはあれど、珠《たま》のいくつは
なやましき夕暮《ゆふぐれ》のにほひのなかに
ゆらゆらと円《まろ》みつつ、ほつと消《き》えたる。
ゆめ、にほひ、その吐息《といき》……
彼《かれ》はまた、
怖々《おづおづ》と、怖々《おづおづ》と、……眩《まぶ》しげに頬《ほ》をふくらませ
蒸《む》し淀《よど》む空気《くうき》にぞ吹きもいでたる。
あはれ、見よ、
いろいろのかがやきに濡《ぬ》れもしめりて
円《まろ》らにものぼりゆく大《おほ》きなるひとつの珠《たま》よ。
そをいまし見あげたる無心《むしん》の瞳《ひとみ》。
背後《そびら》には、血しほしたたる
拳《こぶし》あげ、
霞《かす》める街《まち》の大時計《おほどけい》睨《にら》みつめたる
山門《さんもん》の仁王《にわう》の赤《あか》き幻想《イリユウジヨン》……
その裏《うら》を
ちやるめらのゆく……
[#地付き]四十一年十二月
浴室
水落つ、たた[#「たた」に傍点]と………浴室《よくしつ》の真白き湯壺《ゆつぼ》
大理石《なめいし》の苦悩《なやみ》に湯気《ゆげ》ぞたちのぼる。
硝子《がらす》の外《そと》の濁川《にごりがは》、日にあかあかと
小蒸汽《こじようき》の船腹《ふなばら》光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。
水落つ、たた[#「たた」に傍点]と………‥灰色《はひいろ》の亜鉛《とたん》の屋根の
繋留所《けいりうじよ》、わが窓近き陰鬱《いんうつ》に
行徳《ぎやうとく》ゆきの人はいま見つつ声なし、
川むかひ、黄褐色《わうかつしよく》の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たた[#「たた」に傍点]と…………両国《りやうごく》の大吊橋《おほつりばし》は
うち煤《すす》け、上手《かみて》斜《ななめ》に日を浴《あ》びて、
色薄|黄《き》ばみ、はた重く、ちやるめらまじり
忙《せは》しげに夜《よ》に入る子らが身の運《はこ》び、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たた[#「たた」に傍点]と…………もの甘く、あるひは赤く、
うらわかきわれの素肌《すはだ》に沁《し》みきたる
鉄《てつ》のにほひと、腐《くさ》れゆく石鹸《しやぼん》のしぶき。
水面《みのも》には荷足《にたり》の暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たた[#「たた」に傍点]と…………たた[#「たた」に傍点]とあな音色《ねいろ》柔《やは》らに、
大理石《なめいし》の苦悩《なやみ》に湯気《ゆげ》は濃《こ》く、温《ぬ》るく、
鈍《にぶ》きどよみと外光《ぐわいくわう》のなまめく靄に
疲《つか》れゆく赤き都会《とくわい》のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
[#地付き]四十一年八月
入日の壁
黄《き》に潤《しめ》る港の入日《いりひ》、
切支丹《きりしたん》邪宗《じやしゆう》の寺の入口《いりぐち》の
暗《くら》めるほとり、色古りし煉瓦《れんぐわ》の壁に射かへせば、
静かに起る日の祈祷《いのり》、
『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌《さんしよう》の幽《かす》けき夢路《ゆめぢ》。
あかあかと精舎《しやうじや》の入日。――
ややあれば大風琴《おほオルガン》の音《ね》の吐息《といき》
たゆらに嘆《なげ》き、白蝋《はくらふ》の盲《し》ひゆく涙。――
壁のなかには埋《うづ》もれて
眩暈《めくるめ》き、素肌《すはだ》に立てるわかうどが赤き幻《まぼろし》。
ただ赤き精舎《しやうじや》の壁に、
妄念《まうねん》は熔《とろ》くるばかりおびえつつ
全身《ぜんしん》落つる日を浴《あ》びて真夏《まなつ》の海をうち睨《にら》む。
『聖《サンタ》マリヤ、イエスの御母《みはは》。』
一斉《いつせい》に礼拝《をろがみ》終《をは》る老若《らうにやく》の消え入るさけび。
はた、白《しら》む入日の色に
しづしづと白衣《はくえ》の人らうちつれて
湿潤《しめり》も暗き戸口《とぐち》より浮びいでつつ、
眩《まぶ》しげに数珠《じゆず》ふりかざし急《いそ》げども、
など知らむ、素肌《すはだ》に汗《あせ》し熔《とろ》けゆく苦悩《くなう》の思《おもひ》。
暮れのこる邪宗《じやしゆう》の御寺《みてら》
いつしかに薄《うす》らに青くひらめけば
ほのかに薫《くゆ》る沈《ぢん》の香《かう》、波羅葦増《ハライソ》のゆめ。
さしもまた埋《うも》れて顫《ふる》ふ妄念《まうねん》の
血に染みし踵《かがと》のあたり、蟋蟀《きりぎりす》啼きもすずろぐ。
[#地付き]四十一年八月
狂へる椿
ああ、暮春《ぼしゆん》。
なべて悩《なや》まし。
溶《とろ》けゆく雲のまろがり、
大《おほ》ぞらのにほひも、ゆめも。
ああ、暮春。
大理石《なめいし》のまぶしきにほひ――
幾基《いくもと》の墓の日向《ひなた》に
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき眩暈《くるめき》の甘き恐怖《おそれ》よ。
あかあかと狂ひいでぬる薮椿《やぶつばき》、
自棄《やけ》に熱《ねつ》病《や》む霊《たま》か、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]言《うはごと》。
そがかたへなる崖《がけ》の上《うへ》、
うち湿《しめ》り、熱《ほて》り、まぶしく、また、ねぶく
大路《おほぢ》に淀《よど》むもののおと。
人力車夫《じんりきしやふ》は
ひとつらね青白《あをじろ》の幌《ほろ》をならべぬ。
客を待つこころごころに。
ああ、暮春。
さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き崖《がけ》には、
窓《まど》もなき牢獄《ひとや》の壁の
長き列《つら》、はては閉《とざ》せる
灰黒《はひぐろ》の重き裏門《うらもん》。
はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる窪地《くぼち》のそらの
いづこにか、
さはひとり、
湿《しめ》り吹きゆく
幼《をさな》ごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の曲《ふし》。
笛の曲《ふし》…………
かくて、はた、病《や》みぬる椿《つばき》、
赤く、赤く、狂《くる》へる椿《つばき》。
[#地付き]四十一年六月
吊橋のにほひ
夏の日の激《はげ》しき光
噴《ふ》きいづる銀《ぎん》の濃雲《こぐも》に照りうかび、
雲は熔《とろ》けてひたおもて大河筋《おほかはすぢ》に射かへせば、
見よ、眩暈《めくるめ》く水の面《おも》、波も真白に
声もなき潮のさしひき。
そがうへに懸《かか》る吊橋。
煤《すす》けたる黝《ねずみ》の鉄《てつ》の桁構《けたがまへ》、
半月形《はんげつけい》の幾円《いくまろ》み絶えつつ続くかげに、見よ、
薄《うす》らに青む水の色、あるは煉瓦《れんぐわ》の
円柱《まろはしら》映《うつ》ろひ、あかみ、たゆたひぬ。
銀色《ぎんいろ》の光のなかに、
そろひゆく櫂《オオル》のなげきしらしらと
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