《うち》。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]四十一年六月


  暮春

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、河岸《かし》の日のゆふべ、
日の光。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

眼科《がんくわ》の窓《まど》の磨硝子《すりがらす》、しどろもどろの
白楊《はくやう》の温《ぬる》き吐息《といき》にくわとばかり、
ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、
蒸し淀《よど》む夕日《ゆふひ》の光。
黄《き》のほめき。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、またも
いづこにか、
なやまし、あはれ、
音《ね》も妙《たへ》に
紅《あか》き嘴《はし》ある小鳥らのゆるきさへづり。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

はた、大河《おほかは》の饐《す》え濁《にご》る、河岸《かし》のまぢかを
ぎちぎちと病《や》ましげにとろろぎめぐる
灰色《はいいろ》黄《き》ばむ小蒸汽《こじようき》の温《ぬ》るく、まぶしく、
またゆるくとろぎ噴《ふ》く湯気《ゆげ》
いま懈《た》ゆく、
また絶えず。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

いま病院《びやうゐん》の裏庭《うらには》に、煉瓦のもとに、
白楊《はくやう》のしどろもどろの香《か》のかげに、
窓の硝子《がらす》に、
まじまじと日向《ひなた》求《もと》むる病人《やまうど》は目《め》も悩《なや》ましく
見ぞ夢む、暮春《ぼしゆん》の空と、もののねと、
水と、にほひと。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、
また懈《た》ゆく。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
[#地付き]四十一年三月


  噴水の印象

噴水《ふきあげ》のゆるきしたたり。――
霧しぶく苑《その》の奥、夕日《ゆふひ》の光、
水盤《すゐばん》の黄《き》なるさざめき、
なべて、いま
ものあまき嗟嘆《なげかひ》の色。

噴水《ふきあげ》の病《や》めるしたたり。――
いづこにか病児《びやうじ》啼《な》き、ゆめはしたたる。
そこここに接吻《くちつけ》の音《おと》。
空は、はた、
暮れかかる夏のわななき。

噴水《ふきあげ》の甘きしたたり。――
そがもとに痍《きず》つける女神《ぢよじん》の瞳。
はた、赤き眩暈《くるめき》の中《うち》、
冷《ひや》み入る
銀《ぎん》の節《ふし》、雲のとどろき。

噴水《ふきあげ》の暮るるしたたり。――
くわとぞ蒸《む》す日のおびえ、晩夏《ばんか》のさけび、
濡れ黄ばむ憂鬱症《ヒステリイ》のゆめ
青む、あな
しとしとと夢はしたたる。
[#地付き]四十一年七月


  顔の印象 六篇

   A 精舎

うち沈む広額《ひろびたひ》、夜《よ》のごとも凹《くぼ》める眼《まなこ》――
いや深く、いや重く、泣きしづむ霊《たまし》の精舎《しやうじや》。
それか、実《げ》に声もなき秦皮《とねりこ》の森のひまより
熟視《みつ》むるは暗《くら》き池、谷そこの水のをののき。
いづこにか薄日《うすひ》さし、きしりこきり[#「きしりこきり」に傍点]斑鳩《いかるが》なげく
寂寥《さみしら》や、空の色なほ紅《あけ》ににほひのこれど、
静かなる、はた孤独《ひとり》、山間《やまあひ》の霧にうもれて
悔《くい》と夜《よ》のなげかひを懇《ねもごろ》に通夜《つや》し見まもる。

かかる間《ま》も、底ふかく青《あを》の魚|盲《めし》ひあぎとひ、
口そそぐ夢の豹《へう》水の面《も》に血音《ちのと》たてつつ、
みな冷《ひ》やき石の世《よ》と化《な》りぞゆく、あな恐怖《おそれ》より。

かくてなほ声もなき秦皮《とねりこ》よ、秘《ひそ》に火ともり、
精舎《しやうじや》また水晶と凝《こご》る時《とき》愁《うれひ》やぶれて
響きいづ、響きいづ、最終《いやはて》の霊《たま》の梵鐘《ぼんしよう》。
[#地付き]以下五篇――四十一年三月


   B 狂へる街

赭《あか》らめる暗《くら》き鼻、なめらかに禿《は》げたる額《ひたひ》、
痙攣《ひきつ》れる唇《くち》の端《はし》、光なくなやめる眼《まなこ》
なにか見る、夕栄《ゆふばえ》のひとみぎり噎《むせ》ぶ落日《いりひ》に、
熱病《ねつびやう》の響《ひびき》する煉瓦家《れんぐわや》か、狂へる街《まち》か。

見るがまに焼酎《せうちう》の泡《あわ》しぶきひたぶる歎《なげ》く
そが街《まち》よ、立てつづく尖屋根《とがりやね》血ばみ疲《つか》れて
雲赤くもだゆる日、悩《なや》ましく馬車《ばしや》駆《か》るやから
霊《たましひ》のありかをぞうち惑《まど》ひ窓《まど》ふりあふぐ。

その窓《まど》に盲《めし》ひたる爺《をぢ》ひとり鈍《にぶ》き刃《は》研《と》げる。
はた、唖《おふし》朱《しゆ》に笑ひ痺《しび》れつつ女《をみな》を説《と》ける。
次《つぎ》なるは聾《ろう》しぬる清き尼《あま》三味線《しやみせん》弾《ひ》ける。

しかはあれ、照り狂ふ街《まち》はまた酒と歌とに
しどろなる舞《まひ》の列《れつ》あかあかと淫《たは》れくるめき、
馬車《ばしや》のあと見もやらず、意味《いみ》もなく歌ひ倒《たふ》るる。


   C 醋の甕

蒼《あを》ざめし汝《な》が面《おもて》饐《す》えよどむ瞳《ひとみ》のにごり、
薄暮《くれがた》に熟視《みつ》めつつ撓《たわ》みちる髪の香《か》きけば――
醋《す》の甕《かめ》のふたならび人もなき室《むろ》に沈みて、
ほの暗《くら》き玻璃《はり》の窓ひややかに愁《うれ》ひわななく。

外面《とのも》なる嗟嘆《なげかひ》よ、波もなきいんく[#「いんく」に傍点]の河に
旗青き独木舟《うつろぶね》そこはかと巡《めぐ》り漕ぎたみ、
見えわかぬ悩《なやみ》より錨《いかり》曳《ひ》き鎖《くさり》巻かれて、
伽羅《きやら》まじり消え失《う》する黒蒸汽《くろじようき》笛《ふえ》ぞ呻《うめ》ける。

吊橋《つりばし》の灰白《はひじろ》よ、疲《つか》れたる煉瓦《れんぐわ》の壁《かべ》よ、
たまたまに整《ととの》はぬ夜《よ》のピアノ淫《みだ》れさやげど、
ひとびとは声もなし、河の面《おも》をただに熟視《みつ》むる。
はた、甕《かめ》のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、
内と外《そと》かぎりなき懸隔《へだたり》に帷《とばり》堕《お》つれば、
あな悲し、あな暗《くら》し、醋《す》の沈黙《しじま》長くひびかふ。

   D 沈丁花

なまめけるわが女《をみな》、汝《な》は弾《ひ》きぬ夏の日の曲《きよく》、
悩《なや》ましき眼《め》の色に、髪際《かうぎは》の紛《こな》おしろひに、
緘《つぐ》みたる色あかき唇《くちびる》に、あるはいやしく
肉《ししむら》の香《か》に倦《う》める猥《みだ》らなる頬《ほ》のほほゑみに。

響《ひび》かふは呪《のろ》はしき執《しふ》と欲《よく》、ゆめもふくらに
頸《うなじ》巻く毛のぬくみ、真白《ましろ》なるほだしの環《たまき》
そがうへに我ぞ聴《き》く、沈丁花《ぢんてうげ》たぎる畑《はたけ》を、
堪《た》へがたき夏の日を、狂《くる》はしき甘《あま》きひびきを。

しかはあれ、またも聴く、そが畑《はた》に隣《とな》る河岸《かし》側《きは》、
色ざめし浅葱幕《あさぎまく》しどけなく張りもつらねて、
調《しら》ぶるは下司《げす》のうた、はしやげる曲馬《チヤリネ》の囃子《はやし》。

その幕の羅馬字《らうまじ》よ、くるしげに馬は嘶《いなな》き、
大喇叭《おほらつぱ》鄙《ひな》びたる笑《わらひ》してまたも挑《いど》めば
生《なま》あつき色と香《か》とひとさやぎ歎《なげ》きもつるる。

   E 不調子

われは見る汝《な》が不調《ふてう》、――萎《しな》びたる瞳の光沢《つや》に、
衰《おとろへ》の頬《ほ》ににほふおしろひの厚き化粧《けはひ》に、
あはれまた褪《あ》せはてし髪の髷《まげ》強《つよ》きくゆりに、
肉《ししむら》の戦慄《わななき》を、いや甘き欲《よく》の疲労《つかれ》を。

はた思ふ、晩夏《おそなつ》の生《なま》あつきにほひのなかに、
倦《う》みしごと縺《もつ》れ入るいと冷《ひ》やき風の吐息《といき》を。
新開《しんかい》の街《まち》は※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さ》びて、色赤く猥《みだ》るる屋根を、
濁りたる看板《かんばん》を、入り残る窓の落日《いりひ》を。

なべてみな整《ととの》はぬ色の曲《ふし》……ただに鋭《するど》き
最高音《ソプラノ》の入り雑《まじ》り、埃《ほこり》たつ家《や》なみのうへに、
色にぶき土蔵家《どざうや》の江戸芝居《えどしばゐ》ひとり古りたる。

露《あら》はなる日の光、そがもとに三味《しやみ》はなまめき、
拍子木《へうしぎ》の歎《なげき》またいと痛《いた》し古き痍《いたで》に、
かくてあな衰《おとろへ》のもののいろ空《そら》は暮れ初む。

   F 赤き恐怖

わかうどよ、汝《な》はくるし、尋《と》めあぐむ苦悶《くもん》の瞳《ひとみ》、
秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇《くちびる》
みな恋の響なり、熟視《みつ》むれば――調《しらべ》かなでて
火のごとき馬ぐるま燃《も》え過ぐる窓のかなたを。

はた、辻の真昼《まひる》どき、白楊《はこやなぎ》にほひわななき、
雲浮かぶ空《そら》の色|生《なま》あつく蒸しも汗《あせ》ばむ
街《まち》よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、
炎上《えんじやう》の光また眼《め》にうつり、壁ぞ狂《くる》へる。

人もなき路のべよ、しとしとと血を滴《したた》らし
胆《きも》抜《ぬ》きて走る鬼、そがあとにただに餞《う》ゑつつ
色赤き郵便函《ポスト》のみくるしげにひとり立ちたる。

かくてなほ窓の内《うち》すずしげに室《むろ》は濡《ぬ》るれど、
戸外《とのも》にぞ火は熾《さか》る、………哀《あは》れ、哀《あは》れ、棚《たな》の上《へ》に見よ、
水もなき消火器《せうくわき》のうつろなる赤き戦慄《をののき》。


  盲ひし沼

午後六時《ごごろくじ》、血紅色《けつこうしよく》の日の光
盲《めし》ひし沼にふりそそぎ、濁《にごり》の水の
声もなく傷《きずつ》き眩《くら》む生《なま》おびえ。
鉄《てつ》の匂《にほひ》のひと冷《ひや》み沁《し》みは入れども、
影うつす煙草《たばこ》工場《こうば》の煉瓦壁《れんぐわかべ》。
眼《め》も痛《いた》ましき香《か》のけぶり、機械《きかい》とどろく。

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鳴ききたる鵝島《がてう》のうから
しらしらと水に飛び入る。
[#字下げ終わり]

午後六時、また噴《ふ》きなやむ管《くだ》の湯気《ゆげ》、
壁に凭《よ》りたる素裸《すはだか》の若者《わかもの》ひとり
腕《かいな》拭《ふ》き鉄《てつ》の匂にうち噎《むせ》ぶ。
はた、あかあかと蒸気鑵《じようきがま》音《おと》なく叫び、
そこここに咲きこぼれたる芹《せり》の花、
あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。

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声もなき鵞鳥《がてう》のうから
色みだし水に消え入る
[#ここで字下げ終わり]

午後六時、鵞鳥《がてう》の見たる水底《みなぞこ》は
血潮したたる沼《ぬま》の面《も》の負傷《てきず》の光
かき濁る泥《どろ》の臭《くさ》みに疲《つか》れつつ、
水死《すゐし》の人の骨のごとちらぼふなかに
もの鈍《にぶ》き鉛の魚のめくるめき、
はた浮《うか》びくる妄念《まうねん》の赤きわななき。

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逃《に》げいづる鵞鳥《がてう》のうから
鳴きさやぎ汀《みぎは》を走《はし》る。
[#ここで字下げ終わり]

午後六時、あな水底《みそこ》より浮びくる
赤きわななき――妄念の猛《たけ》ると見れば、
強き煙草に、鉄《てつ》の香《か》に、わかき男に、
顔いだす硝子《がらす》の窓の少女《をとめ》らに血潮したたり、
歓楽《くわんらく》の極《はて》の恐怖《おそれ》の日のおびえ、
顫《ふる》ひ高まる苦痛《くるしみ》ぞ朱《あけ》にくづるる。

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刹那、ふと太《ふと》く湯気《ゆげ》吐き
吼《ほ》えいづ
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