ノ、瀞《とろ》みうつれる
晩春《おそはる》の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]閉《とざ》す片側街《かたかはまち》よ、
暮れなやむ靄の内皷《うちつづみ》をうてる。
いづこにか、もの甘き蜂の巣《す》のこゑ。
幼子《をさなご》のむれはまた吹笛《フルウト》鳴らし、
白楊《はくやう》の岸《きし》にそひ曇り黄《き》ばめる
教会《けうくわい》の硝子※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]《がらすまど》ながめてくだる。
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日はのこる両側《もろがは》の梢《こずゑ》にあかく、
さはあれど、暮れ惑《まど》ふ下枝《しづえ》のゆらぎ……
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またあれば、公園《こうゑん》の長椅子《ベンチ》にもたれ、
かなたには恋慕《れんぼ》びと苦悩《なやみ》に抱く。
そのかげをのどやかに嬰児《あかご》匍《は》ひいで
鵞《が》の鳥《とり》を捕《と》らむとて岸《きし》ゆ落ちぬる。
水面《みのも》なるひと騒擾《さやぎ》、さあれ、このとき、
驀然《ましぐら》に急ぎくる一列《ひとつら》の郵便馬車《いうびんばしや》よ、
薄闇《うすやみ》ににほひゆく赤き曇《くもり》の
快《こころよ》さ、人はただ街《まち》をばながむ。
[#ここで字下げ終わり]
灯《あかり》点《とも》る、さあれなほ梢《こずゑ》はにほひ、
全《また》くいま暮れはてし下枝《しづえ》のゆらぎ……
[#地付き]四十一年八月
雨の日ぐらし
ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく
刻《きざ》む音《おと》……
河岸《かし》のそば、
黴《かび》の香《か》のしめりも暗し、
かくてあな暮れてもゆくか、
駅逓《えきてい》の局《きよく》の長壁《ながかべ》
灰色《はひいろ》に、暗きうれひに、
おとつひも、昨日《きのふ》も、今日《けふ》も。
さあれ、なほ薫《くゆ》りのこれる
一列《ひとつら》の紅《あか》き花《はな》罌粟《けし》
かたかげの草に濡れつつ、
うちしめり浮きもいでぬる。
雨はまたくらく、あかるく、
やはらかきゆめの曲節《めろでい》……
ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく
刻《きざ》む音……
角※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の玻璃《はり》のくらみを
死《し》の報知《しらせ》ひまなく打電《う》てる。
さてあればそこはかとなく
出でもゆく
薄ぐらき思《おもひ》のやから
その歩行《あるき》夜《よ》にか入るらむ。
しばらくは
事もなし。
かかる日の雨の日ぐらし。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻《きざ》む音《おと》……
さもあれや、
雨はまたゆるにしとしと
暮れもゆくゆめの曲節《めろでい》……
いづこにか鈴《すゞ》の音《ね》しつつ、
近く、
はた、速のく軋《きしり》、
待ちあぐむ郵便馬車《いうびんばしや》の
旗の色《いろ》見えも来なくに、
うち曇る馬の遠嘶《とほなき》。
さあれ、ふと
夕日さしそふ。
瞬間《たまゆら》の夕日さしそふ。
あなあはれ、
あなあはれ、
泣き入りぬ罌粟《けし》のひとつら、
最終《いやはて》に燃《も》えてもちりぬ。
日の光かすかに消ゆる。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻《きざ》む音《おと》……
雨の曲節《めろでい》……
ものなべて、
ものなべて、
さは入らむ、暗き愁に。
あはれ、また、出でゆきし思のやから
帰り来なくに。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻《きざ》む音《おと》……
雨の曲節《めろでい》……
灰色《はひいろ》の局《きよく》は夜《よ》に入る。
[#地付き]四十一年五月
狂人の音楽
空気《くうき》は甘し……また赤し……黄《き》に……はた、緑《みどり》……
晩夏《おそなつ》の午後五時半の日光《につくわう》は※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《かげり》を見せて、
蒸し暑く噴水《ふきゐ》に濡《ぬ》れて照りかへす。
瘋癲院《ふうてんゐん》の陰鬱《いんうつ》に硝子《がらす》は光り、
草場《くさば》には青き飛沫《しぶき》の茴香酒《アブサント》冷《ひ》えたちわたる。
いま狂人《きやうじん》のひと群《むれ》は空うち仰ふぎ――
饗宴《きやうえん》の楽器《がくき》とりどりかき抱《いだ》き、自棄《やけ》に、しみらに、
傷《きず》つける獣《けもの》のごとき雲の面《おも》
ひたに怖れて色盲《しきまう》の幻覚《まぼろし》を見る。
空気《くうき》は重し……また赤し……共に……はた緑《みどり》……
* * * *
* * * *
オボイ鳴る……また、トロムボオン……
狂《くる》ほしき※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オラの唸《うなり》……
一人《ひとり》の酸《す》ゆき音《ね》は飛びて怜羊《かもしか》となり、
ひとつは赤き顔ゑがき、笑《わら》ひわななく
音《ね》の恐怖《おそれ》……はた、ほのしろき髑髏舞《どくろまひ》……
弾《ひ》け弾《ひ》け……鳴らせ……また舞踏《をど》れ……
セロの、喇叭《らつぱ》の蛇《へび》の香《か》よ、
はた、爛《たゞ》れ泣く※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロンの空には赤子飛びみだれ、
妄想狂《まうさうきやう》のめぐりにはバツソの盲目《めしひ》
小さなる骸色《しかばねいろ》の呪咀《のろひ》して逃《のが》れふためく。
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏《をど》れ……
クラリネッ卜の槍尖《やりさき》よ、
曲節《メロヂア》のひらめき緩《ゆる》く、また急《はや》く、
アルト歌者《うたひ》のなげかひを暈《くら》ましながら、
一列《ひとつらね》、血しほしたたる神経《しんけい》の
壁の煉瓦《れんぐわ》のもとを行《ゆ》く……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏《をど》れ……、
かなしみの蛇《へび》、緑《みどり》の眼《め》
槍《やり》に貫《ぬ》かれてまた歎《なげ》く……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏《をど》れ……
はた、吹笛《フルウト》の香《か》のしぶき、
青じろき花どくだみの鋭《するど》さに、
濁りて光る山椒魚《さんしようを》、沼《ぬま》の調《しらべ》に音《ね》は瀞《とろ》む。
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏《をど》れ……
傷《きずつ》きめぐる観覧車《くわんらんしや》、
はたや、太皷《たいこ》の悶絶《もんぜつ》に列《つら》なり走《はし》る槍尖《やりさき》よ、
※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の硝子《がらす》に火は叫《さけ》び、
月琴《げつきん》の雨ふりそそぐ……
弾《ひ》け弾《ひ》け……鳴らせ……また舞踏《をど》れ……
赤き神経《しんけい》……盲《めし》ひし血……
聾《ろう》せる脳の鑢《やすり》の音《ね》……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏《をど》れ……
* * * *
* * * *
空気《くうき》は酸《すゆ》し……いま青し……黄《き》に……なほ赤く……
はやも見よ、日の入りがたの雲の色
狂気《きやうき》の楽《がく》の音《ね》につれて波だちわたり、
悪獣の蹠《あなうら》のごと血を滴《たら》す。
そがもとに噴水《ふきゐ》のむせび
濡れ濡れて薄闇《うすやみ》に入る……
空気《くうき》は重し……なほ赤し……黄《き》に……また緑《みどり》……
いつしかに蒸汽《じようき》の鈍《にぶ》き船腹《ふなばら》の
ごとくに光りかぎろひし瘋癲院《ふうてんゐん》も暮れゆけば、
ただ冷《ひ》えしぶく茴香酒《アブサント》、鋭《するど》き玻璃《はり》のすすりなき。
草場《くさば》の赤き一群《ひとむれ》よ、眼《め》ををののかし、
躍《をど》り泣き弾《ひ》きただらかす歓楽《くわんらく》の
はてしもあらぬ色盲《しきまう》のまぼろしのゆめ……
午後の七時の印象《いんしやう》はかくて夜《よ》に入る。
空気は苦《にが》し……はや暗《くら》し……黄《き》に……なほ青く……
[#地付き]四十一年九月
風のあと
夕日《ゆふひ》はなやかに、
こほろぎ啼《な》く。
あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒《すさ》みたる風も落ちて、
夕日《ゆふひ》はなやかに、
こほろぎ啼く。
[#地付き]四十一年八月
月の出
ほのかにほのかに音色《ねいろ》ぞ揺《ゆ》る。
かすかにひそかににほひぞ鳴る。
しみらに列《なみ》立《た》つわかき白楊《ぽぴゆら》、
その葉のくらみにこころ顫《ふる》ふ。
ほのかにほのかに吐息《といき》ぞ揺る。
かすかにひそかに雫《しづく》ぞ鳴る。
あふげばほのめくゆめの白楊《ぽぴゆら》、
愁《うれひ》の水《み》の面《も》を櫂《かい》はすべる。
吐息《といき》のをののき、君が眼《め》ざし
やはらに縺《もつ》れてたゆたふとき、
光のひとすぢ――顫《ふる》ふ白楊《ぽぴゆら》
文月《ふづき》の香炉《かうろ》に濡れてけぶる。
さてしもゆるけくにほふ夢路《ゆめぢ》、
したたりしたたる櫂《かい》のしづく、
薄らに沁《し》みゆく月のでしほ
ほのかにわれらが小舟《をふね》ぞゆく。
ほのめく接吻《くちつけ》、からむ頸《うなじ》、
いづれか恋慕《れんぼ》の吐息《といき》ならぬ。
夢見てよりそふわれら、白楊《ぽぴゆら》、
水上《みなかみ》透《す》かしてこころ顫《ふる》ふ。
[#地付き]四十一年二月
[#改丁]
外光と印象
近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める 〔Cafe'〕 の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。[#地から1字上げ]太田正雄
[#改ページ]
冷めがたの印象
あわただし、旗ひるがへし、
朱《しゆ》の色の駅逓《えきてい》馬車《ぐるま》跳《をど》りゆく。
曇日《くもりび》の色なき街《まち》は
清水《しみづ》さす石油《せきゆ》の噎《むせび》、
轢《し》かれ泣く停車場《ていしやば》の鈴《すゞ》、溝《みぞ》の毒《どく》、
昼の三味《しやみ》、鑢《やすり》磨《す》る歌、
茴香酒《アブサン》の青み泡だつ火の叫《さけび》、
絶えず眩《くる》めく白楊《やまならし》、遂に疲れて
マンドリン奏《かな》でわづらふ風の群《むれ》、
あなあはれ、そのかげに乞食《かたゐ》ゆきかふ。
くわと来り、燃《も》えゆく旗は
死に堕《お》つる、夏の光のうしろかげ。
灰色の亜鉛《とたん》の屋根に、
青銅《せいどう》の擬宝珠《ぎぼしゆ》の錆《さび》に、
また寒き万象《ものみな》の愁《うれひ》のうへに、
爛《たゞ》れ弾《ひ》く猩紅熱《しやうこうねつ》の火の調《しらべ》、
狂気《きやうき》の色と冷《さ》めがたの疲労《つかれ》に、今は
ひた嘆《なげ》く、悔《くい》と、悩《なやみ》と、戦慄《をのゝき》と。
あかあかとひらめく旗は
猥《みだ》らなるその最終《いやはて》の夏の曲《きよく》。
あなあはれ、あなあはれ、
あなあはれ、光消えさる。
[#地付き]四十年十一月
赤子
赤子啼く、
[#ここから2字下げ]
急《はや》き瀬《せ》の中《うち》。
[#ここで字下げ終わり]
壁重き女囚《ぢよしう》の牢獄《ひとや》、
鉄《てつ》の門《もん》、
淫慾《いんよく》の蛇の紋章《もんしやう》
くわとおびえ、
水に、落日《いりひ》に
照りかへし、
[#ここから1字下げ]
黄ばむひととき。
[#ここで字下げ終わり]
赤子《あかご》啼《な》く、
[#ここから2字下げ]
急《はや》き瀬《せ》の中
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