ェほかの霊《たましひ》のありとあらゆるその呪咀《のろひ》。
朝明《あさあけ》か、
死《し》の薄暮《くれがた》か、
昼か、なほ生《あ》れもせぬ日か、
はた、いづれともあらばあれ。
われら知る赤き唇《くちびる》。
[#地付き]四十一年六月
濁江の空
腐《くさ》れたる林檎《りんご》の如き日のにほひ
円《まろ》らに、さあれ、光なく甘《あま》げに沈む
晩春《おそはる》の濁《にごり》重《おも》たき靄の内《うち》、
ふと、カキ色《いろ》の軽気球《けいききう》くだるけはひす。
遠方《をちかた》の曇《くも》れる都市《とし》の屋根《やね》の色
たゆげに仰《あふ》ぐ人はいま鈍《にぶ》くもきかむ、
濁江《にごりえ》のねぶたき、あるは、やや赤《あか》き
にほひの空のいづこにか洩《も》るる鉄《てつ》の音《ね》。
なやましき、さは江《え》の泥《どろ》の沈澱《おどみ》より
あかるともなき灰紅《くわいこう》の帆のふくらみに
伝《つた》へくる潜水夫《もぐりのひと》が作業《さげふ》にか、
饐《す》えたる吐息《といき》そこはかと水面《みのも》に黄《き》ばむ。
河岸《かし》になほ物見《ものみ》る子らはうづくまり、
はや倦《う》ましげに人形《にんぎやう》をそが手に泣かす。
日暮《ひくれ》どき、入日《いりひ》に濁る靄《もや》の内《うち》、
また、ふくらかに軽気球《けいききう》くだるけはひす。
[#地付き]四十一年八月
魔国のたそがれ
うち曇《くも》る暗紅色《あんこうしよく》の大《おほ》き日の
魔法《まはふ》の国に病《や》ましげの笑《ゑみ》して入れば、
もの甘《あま》き驢馬《ろば》の鳴く音《ね》にもよほされ、
このもかのもに悩《なや》ましき吐息《といき》ぞおこる。
そのかみの激《はげ》しき夢や忍《しの》ぶらむ。
鬱黄《うこん》の百合《ゆり》は血《ち》ににじむ眸《ひとみ》をつぶり、
人間《にんげん》の声《こゑ》して挑《いど》み、飛びかはし
鸚鵡《あうむ》の鳥はかなしげに翅《つばさ》ふるはす。
草も木もかの誘惑《いざなひ》に化《な》されつる
旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなく
えもわかぬ毒《どく》の怨言《かごと》になやまされ、
われと悲しき歓楽《くわんらく》に怕《おそ》れて顫《ふる》ふ。
日は沈み、たそがれどきの空《そら》の色
青き魔薬《まやく》の薫《かをり》して古《ふ》りつつゆけば、
ほのかにも誘《さそ》はれ来《きた》る隊商《カラバン》の
鈴《すず》鳴る……あはれ、今日《けふ》もまた恐怖《おそれ》の予報《しらせ》。
はとばかり黙《つぐ》み戦《をのの》くものの息《いき》。
色天鵝絨《いろびろうど》を擦《す》るごとき裳裾《もすそ》のほかは
声もなく甘く重《おも》たき靄《もや》の闇《やみ》、
はやも王女《わうぢよ》の領《し》らすべき夜《よ》とこそなりぬ。
[#地付き]四十一年八月
蜜の室
薄暮《くれがた》の潤《うる》みにごれる室《むろ》の内《うち》、
甘くも腐《くさ》る百合《ゆり》の蜜《みつ》、はた、靄《もや》ぼかし
色赤きいんくの罎《びん》のかたちして
ひそかに点《とも》る豆らんぷ息《いき》づみ曇る。
『豊国《とよくに》』のぼやけし似顔《にがほ》生《なま》ぬるく、
曇硝子《くもりがらす》の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]のそと外光《ぐわいくわう》なやむ。
ものの本《ほん》、あるはちらぼふ日のなげき、
暮れもなやめる霊《たましひ》の金字《きんじ》のにほひ。
接吻《くちつけ》の長《なが》き甘さに倦《あ》きぬらむ。
そと手をほどき靄の内《うち》さぐる心地《こゝち》に、
色盲《しきまう》の瞳《ひとみ》の女《をんな》うらまどひ、
病《や》めるペリガンいま遠き湿地《しめぢ》になげく。
かかるとき、おぼめき摩《なす》る Violon《※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロン》 の
なやみの絃《いと》の手触《てさはり》のにほひの重《おも》さ。
鈍《にぶ》き毛《け》の絨氈《じゆうたん》に甘き蜜《みつ》の闇《やみ》
澱《おど》み饐《す》えつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
[#地付き]四十一年八月
酒と煙草に
酒《さけ》と煙草《たばこ》にうつとりと、
倦《う》めるこころを見まもれば、
それとしもなき霊《たま》のいろ
曇《くも》りながらに泣きいづる。
なにか嘆《なげ》かむ、うきうきと、
三味《しやみ》に燥《はし》やぐわがこころ。
なにか嘆《なげ》かむ、さいへ、また
霊《たま》はしくしく泣きいづる。
[#地付き]四十一年五月
鈴の音
日は赤し、窓《まど》の上《へ》に恐怖《おそれ》の烏《からす》
ひた黙《つぐ》み暮れかかる砂漠《さばく》を熟視《みつ》む。
今日《けふ》もまたもの鈍《にぶ》き駱駝《らくだ》をつらね、
一群《ひとむれ》のわがやから消《き》えさりゆきぬ。
もの甘き鈴の音《おと》、ああそを聴《き》けよ。
[#ここから2字下げ]
からら、からら、ら、ら、ら……
[#ここで字下げ終わり]
暮《く》れのこるピラミドの暗紅色《あんこうしよく》よ。
そが空のうち濁《にご》る重き空気《くうき》よ。
いづこにか月の色ほのめくごとし。
[#ここから2字下げ]
からら、からら、ら、ら、ら……
[#ここで字下げ終わり]
かの群《むれ》よ、靄《もや》ふかく、いまかひろぐる
色|鈍《にぶ》き、幽鬱《いううつ》の毛織《けおり》の天幕《てんと》。
駱駝《らくだ》らのためいきもそこはかとなく。
[#ここから2字下げ]
からら、からら、ら、ら、ら……
[#ここで字下げ終わり]
もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。
饐《す》え温《ぬ》るむ空《そら》のをち、薄《うす》らあかりに、
ほのかにも此方《こなた》見るスフィンクスの瞳。
[#ここから2字下げ]
からら、からら、ら、ら、ら……
[#ここで字下げ終わり]
あはれ、その静《しづ》かなるスフィンクスの瞳。
ああ暗示《あんじ》……えもわかぬ夢の象徴《シムボル》。
またくいま埃及《えじぷと》の夜《よ》とやなるらむ。
[#ここから2字下げ]
からら、からら、ら、ら、ら……
[#ここで字下げ終わり]
烏いまはたはたと遠く飛び去り、
窓《まど》にただ色あかき燈火《ともしび》点《とも》る。
[#地付き]四十一年八月
夢の奥
ほのかにもやはらかきにほひの園生《そのふ》。
あはれ、そのゆめの奥《おく》。日《ひ》と夜《よ》のあはひ。
薄《うす》あかる空の色ひそかに顫《ふる》ひ
暮れもゆくそのしばし、声なく立てる
真白《ましろ》なる大理石《なめいし》の男《をとこ》の像《すがた》、
微妙《いみ》じくもまた貴《あて》に瞑目《めつぶ》りながら
清《きよ》らなる面《おも》の色かすかにゆめむ。
ものなべてさは妙《たへ》に女《をみな》の眼《め》ざし
あはれそが夢ふかき空色《そらいろ》しつつ、
にほやかになやましの思《おもひ》はうるむ。
そがなかに埋《う》もれたる素馨《そけい》のなげき、
蒸《む》し甘き沈丁《ぢんてう》のあるは刺《さ》せども
なにほどの香《か》の痛《いた》み身にしおぼえむ。
わかうどは声もなし、清《きよ》く、かなしく。
薄暮《たそがれ》にせきもあへぬ女《をんな》の吐息《といき》
あはれその愁《うれひ》如《な》し、しぶく噴水《ふきあげ》
そことなう節《ふし》ゆるうゆらゆるなべに、
いつしかとほのめきぬ月の光も。
その空に、その苑《その》に、ほのの青みに
静かなる欷歔《すすりなき》泣きもいでつつ、
いづくにか、さまだるる愛慕《あいぼ》のなげき。
やはらかきほの熱《ほて》る女の足音《あのと》
あはれそのほめき如《な》し、燃《も》えも生《あ》れゆく
ゆめにほふ心音《しんのん》のうつつなきかな。
大理石《なめいし》の身の白《しろ》み、面《おも》もほのかに、
ひらきゆくその眼《め》ざし、なかば閉ぢつつ、
ゆめのごと空|仰《あふ》ぎ、いまぞ見惚《みほ》るる。
色わかき夜《よる》の星、うるむ紅《くれなゐ》。
[#地付き]四十一年七月
窓
かかる窓ありとも知らず、昨日《きのふ》まで過《す》ぎし河岸《かはきし》。
今日《けふ》は見よ、
色赤き花に日の照り、かなしくも依依児《ええてる》匂ふ。
あはれまた病《や》める Piano《ピアノ》 も……
[#地付き]四十一年九月
昨日と今日と
わかうどのせはしさよ。
さは昨日《きのふ》世をも厭ひて重格魯密母《ぢゆうクロヲム》求《と》めも泣きしか、
今朝《けさ》ははや林檎吸ひつつ霧深き河岸路《かしぢ》を辿る。
歌楽し、鳴らす木履《きぐつ》に……
[#地付き]四十一年十一月
わかき日
『かくまでも、かくまでも、
わかうどは悲しかるにや。』
『さなり、女《をみな》、
わかき日には、
ましてまた才《さい》ある身には。』
[#地付き]四十一年十一月
[#改丁]
朱の伴奏
凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたる※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。
[#改ページ]
謀坂
ひと日、わが精舎《しやうじや》の庭《には》に、
晩秋《おそあき》の静かなる落日《いりひ》のなかに、
あはれ、また、薄黄《うすぎ》なる噴水《ふきあげ》の吐息《といき》のなかに、
いとほのに※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロンの、その絃《いと》の、
その夢の、哀愁《かなしみ》の、いとほのにうれひ泣《な》く。
蝋《らふ》の火と懺悔《ざんげ》のくゆり
ほのぼのと、廊《らう》いづる白き衣《ころも》は
夕暮《ゆふぐれ》に言《もの》もなき修道女《しうだうめ》の長き一列《ひとつら》。
さあれ、いま、※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロンの、くるしみの、
刺《さ》すがごと火の酒の、その絃《いと》のいたみ泣く。
またあれば落日《いりひ》の色《いろ》に、
夢|燃《も》ゆる、噴水《ふきあげ》の吐息《といき》のなかに、
さらになほ歌もなき白鳥《しらとり》の愁《うれひ》のもとに、
いと強き硝薬《せうやく》の、黒き火の、
地の底の導火《みちび》燬《や》き、※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロンぞ狂ひ泣く。
跳《をど》り来《く》る車輌《しやりやう》の響《ひびき》、
毒《どく》の弾丸《たま》、血《ち》の烟《けむり》、閃《ひら》めく刃《やいば》、
あはれ、驚破《すは》、火とならむ、噴水《ふきあげ》も、精舎《しやうじや》も、空も。
紅《くれなゐ》の、戦慄《わななき》の、その極《はて》の
瞬間《たまゆら》の叫喚《さけび》燬《や》き、※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロンぞ盲《めし》ひたる。
[#地付き]四十年十二月
こほろぎ
微《ほの》にいまこほろぎ啼《な》ける。
日か落つる――眼《め》をみひらけば
朱《しゆ》の畏怖《おそれ》くわと照《て》りひびく。
内心《ないしん》の苦《にが》きおびえか、
めくるめく痛《いた》き日の色
眼《め》つぶれど、はた、照りひびく。
そのなかにこほろぎ啼ける。
とどろめく銃音《つゝおと》しばし、
痍《きず》つける悪《あく》のうごめき
そこここに、あるは疲《つか》れて
轢《し》きなやむ砲車《はうしや》のあへぎ、
逃げまどふ赤きもろごゑ。
そのなかにこほろぎ啼ける。
盲《めし》ひ、ゆく恋のまぼろし――
その底に疼《うず》きくるしむ
肉《ししむら》の鋭《するど》き絶叫《さけび》、
はた、暗《くら》き曲《きよく》の死《し》の楽《がく》
霊《たましひ》ぞ弾きも連《つ》れぬる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
あなや、また呻吟《うめき》は洩《も》るる。
鉛《なまり》めく首のあたりゆ
幽界《いうかい》の呪咀《のろひ》か洩るる。
寝《ね》がへれば血に染み顫《ふる》ふ
わが敵《かたき》面《おも》ぞ死にたる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
はた、裂
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