tもぞする。……ああ見まもれど
おもむろに悩《なや》みまじろふ色の陰影《かげ》
それともわかね……熱病《ねつびやう》の闇のをののき……

Hachisch《ハシツシユ》 か、酢《す》か、茴香酒《アブサン》か、くるほしく
溺《おぼ》れしあとの日の疲労《つかれ》……縺《もつ》れちらぼふ
Wagner《ワグネル》 の恋慕《れんぼ》の楽《がく》の音《ね》のゆらぎ
耳かたぶけてうち透《す》かし、在《あ》りは在《あ》れども。

それらみな素足《すあし》のもとのくらがりに
爛壊《らんゑ》の光|放《はな》つとき、そのかなしみの
腐《くさ》れたる曲《きよく》の緑《みどり》を如何《いか》にせむ。
君を思ふとのたまひしゆめの言葉《ことば》も。

わかき日の赤《あか》きなやみに織りいでし
にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅《か》ぐとなけれど、
ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ
天鵝絨《びろうど》深くひきかつぎ、今日《けふ》も涙す。
[#地付き]四十一年十二月


  濃霧

濃霧《のうむ》はそそぐ……腐《くさ》れたる大理《だいり》の石の
生《なま》くさく吐息《といき》するかと蒸し暑く、
はた、冷《ひや》やかに官能《くわんのう》の疲《つか》れし光――
月はなほ夜《よ》の氛囲気《ふんゐき》の朧《おぼろ》なる恐怖《おそれ》に懸《かゝ》る。

濃霧《のうむ》はそそぐ……そこここに虫の神経《しんけい》
鋭《と》く、甘く、圧《お》しつぶさるる嗟嘆《なげき》して
飛びもあへなく耽溺《たんでき》のくるひにぞ入る。
薄ら闇、盲唖《まうあ》の院《ゐん》の角硝子《かくがらす》暗くかがやく。

濃霧《のうむ》はそそぐ……さながらに戦《をのゝ》く窓は
亜刺比亜《アラビヤ》の魔法《まはふ》の館《たち》の薄笑《うすわらひ》。
麻痺薬《しびれぐすり》の酸《す》ゆき香《か》に日ねもす噎《む》せて
聾《ろう》したる、はた、盲《めし》ひたる円頂閣《まるやね》か、壁の中風《ちゆうふう》。

濃霧《のうむ》はそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、
いづくにか凋《しを》れし花の息づまり、
苑《その》のあたりの泥濘《ぬかるみ》に落ちし燕や、
月の色|半死《はんし》の生《しやう》に悩《なや》むごとただかき曇る。

濃霧《のうむ》はそそぐ……いつしかに虫も盲《し》ひつつ
聾《ろう》したる光のそこにうち痺《しび》れ、
唖《おうし》とぞなる。そのときにひとつの硝子《がらす》
幽魂《いうこん》の如《ごと》くに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。

濃霧《のうむ》はそそぐ……数《かず》の、見よ、人かげうごき、
闌《ふ》くる夜《よ》の恐怖《おそれ》か、痛《いた》きわななきに
ただかいさぐる手のさばき――霊《たま》の弾奏《だんそう》、
盲目《めしひ》弾き、唖《おうし》と聾者《ろうじや》円《つぶ》ら眼《め》に重《かさ》なり覗《のぞ》く。

濃霧《のうむ》はそそぐ……声もなき声の密語《みつご》や。
官能《くわんのう》の疲《つか》れにまじるすすりなき
霊《たま》の震慄《おびえ》の音《ね》も甘く聾《ろう》しゆきつつ、
ちかき野に喉《のど》絞《し》めらるる淫《たは》れ女《め》のゆるき痙攣《けいれん》。

濃霧《のうむ》はそそぐ……香《か》の腐蝕《ふしよく》、肉《にく》の衰頽《すゐたい》、――
呼吸《いき》深く※[#「口+哥」、第4水準2−04−18]※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]謨《コロロホルム》や吸ひ入るる
朧《ろう》たる暑き夜《よ》の魔睡《ますゐ》……重く、いみじく、
音《おと》もなき盲唖《まうあ》の院《ゐん》の氛囲気《ふんゐき》に月はしたたる。
[#地付き]四十一年十月


  赤き花の魔睡

日《ひ》は真昼《まひる》、ものあたたかに光素《エエテル》の
波動《はどう》は甘《あま》く、また、緩《ゆ》るく、戸《と》に照りかへす、
その濁《にご》る硝子《がらす》のなかに音《おと》もなく、
※[#「口+哥」、第4水準2−04−18]※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]謨《コロロホルム》の香《か》ぞ滴《したた》る……毒《どく》の※[#「言+墟のつくり、第4水準2−88−74]言《うはごと》……

遠《とほ》くきく、電車《でんしや》のきしり……
………棄《す》てられし水薬《すゐやく》のゆめ……

やはらかき猫《ねこ》の柔毛《にこげ》と、蹠《あなうら》の
ふくらのしろみ悩《なや》ましく過《す》ぎゆく時《とき》よ。
窓《まど》の下《もと》、生《せい》の痛苦《つうく》に只《たゞ》赤《あか》く戦《そよ》ぎえたてぬ草《くさ》の花
亜鉛《とたん》の管《くだ》の
湿《しめ》りたる筧《かけひ》のすそに……いまし魔睡《ますゐ》す……
[#地付き]四十一年十二月


  麦の香

嬰児《あかご》泣く……麦の香《か》の湿《しめ》るあなたに、
続《つゞ》け泣く……やはらかに、なやましげにも、
香《か》に噎《むせ》び、香《か》に噎《むせ》び、あはれまた、嬰児《あかご》泣きたつ……
夏の雨さと降《ふ》り過《す》ぎて
新《あらた》にもかをり蒸《む》す野の畑《はた》いくつ湿《しめ》るあなたに、
赤き衣《きぬ》一《ひと》きは若《わか》く、にほやかにけぶる揺籃《ゆりご》や、
磨硝子《すりがらす》、あるは窓枠《まどわく》、濡《ぬ》れ濡《ぬ》れて夕日《ゆふひ》さしそふ。
[#地付き]四十一年十二月


  曇日

曇日《くもりび》の空気《くうき》のなかに、
狂《くる》ひいづる樟《くす》の芽《め》の鬱憂《メランコリア》よ……
そのもとに桐《きり》は咲く。
Whisky《ウイスキイ》 の香《か》のごときしぶき、かなしみ……

そこここにいぎたなき駱駝《らくだ》の寝息《ねいき》、
見よ、鈍《にぶ》き綿羊《めんやう》の色のよごれに
饐《す》えて病《や》む藁《わら》のくさみ、
その湿《しめ》る泥濘《ぬかるみ》に花はこぼれて
紫《むらさき》の薄《うす》き色|鋭《するど》になげく……
はた、空《そら》のわか葉《ば》の威圧《ゐあつ》。

いづこにか、またもきけかし。
餌《ゑ》に饑《う》ゑしベリガンのけうとき叫《さけび》、
山猫《やまねこ》のものさやぎ、なげく鶯《うぐひす》、
腐《くさ》れゆく沼《ぬま》の水|蒸《む》すがごとくに。

そのなかに桐は散《ち》る…… Whisky《ウイスキイ》 の強きかなしみ……

もの甘《あま》き風のまた生《なま》あたたかさ、
猥《みだ》らなる獣《けもの》らの囲内《かこひ》のあゆみ、
のろのろと枝《え》に下《さが》るなまけもの、あるは、貧《まづ》しく
眼《め》を据《す》ゑて毛虫《けむし》啄《つ》む嗟歎《なげかひ》のほろほろ鳥《てう》よ。

そのもとに花はちる……桐のむらさき……

かくしてや日は暮《く》れむ、ああひと日。
病院《びやうゐん》を逃《のが》れ来《こ》し患者《くわんじや》の恐怖《おそれ》、
赤子《あかご》らの眼《め》のなやみ、笑《わら》ふ黒奴《くろんぼ》
酔《ゑ》ひ痴《し》れし遊蕩児《たはれを》の縦覧《みまはり》のとりとめもなく。

その空《そら》に桐《きり》はちる……新《あたら》しきしぶき、かなしみ……

はたや、また、園《その》の外《そと》ゆく
軍楽《ぐんがく》の黒《くろ》き不安《ふあん》の壊《なだ》れ落ち、夜《よ》に入る時《とき》よ、
やるせなく騒《さや》ぎいでぬる鳥獣《とりけもの》。
また、その中《なか》に、
狂《くる》ひいづる北極熊《ほつきよくぐま》の氷なす戦慄《をののき》の声《こゑ》。

その闇《やみ》に花はちる…… Whisky《ウイスキイ》 の香《か》の頻吹《しぶき》……桐の紫《むらさき》……
[#地付き]四十一年十二月


  秋の瞳

晩秋《おそあき》の濡《ぬ》れにたる鉄柵《てすり》のうへに、
黄《き》なる葉の河やなぎほつれてなげく
やはらかに葬送《はうむり》のうれひかなでて、
過ぎゆきし Trombone《トロムボオン》 いづちいにけむ。

はやも見よ、暮れはてし吊橋《つりばし》のすそ、
瓦斯《がす》点《とも》る……いぎたなき馬の吐息《といき》や、
騒《さわ》ぎやみし曲馬師《チヤリネし》の楽屋《がくや》なる幕の青みを
ほのかにも掲《かゝ》げつつ、水《み》の面《も》見る女《をんな》の瞳《ひとみ》。
[#地付き]四十一年十二月


  空に真赤な

空《そら》に真赤《まつか》な雲《くも》のいろ。
玻璃《はり》に真赤《まつか》な酒《さけ》の色《いろ》。
なんでこの身《み》が悲《かな》しかろ。
空《そら》に真赤《まつか》な雲《くも》のいろ。
[#地付き]四十一年五月


  秋のをはり

腐《くさ》れたる林檎《りんご》のいろに
なほ青《あを》きにほひちらぼひ、
水薬《すゐやく》の汚《し》みし卓《つくゑ》に
瓦斯《がす》焜炉《こんろ》ほのかに燃《も》ゆる。

病人《やまうど》は肌《はだ》ををさめて
愁《うれ》はしくさしぐむごとし。
何《な》ぞ湿《しめ》る、医局《いきよく》のゆふべ、
見《み》よ、ほめく劇薬《げきやく》もあり。

色《いろ》冴《さ》えぬ室《むろ》にはあれど、
声《こゑ》たててほのかに燃《も》ゆる
瓦斯《がす》焜炉《こんろ》………空《そら》と、こころと、
硝子戸《がらすど》に鈍《に》ばむさびしさ。

しかはあれど、寒《さむ》きほのほに
黄《き》の入日《いりひ》さしそふみぎり、
朽《く》ちはてし秋《あき》の※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]オロン
ほそぼそとうめきたてぬる。
[#地付き]四十一年十二月


  十月の顔

顔なほ赤《あか》し……うち曇り黄《き》ばめる夕《ゆふべ》、
『十月《じふぐわつ》』は熱《ねつ》を病《や》みしか、疲《つか》れしか、
濁《にご》れる河岸《かし》の磨硝子《すりがらす》脊《せ》に凭りかかり、
霧の中《うち》、入日《いりひ》のあとの河《かは》の面《も》をただうち眺《なが》む。

そことなき櫂《かい》のうれひの音《ね》の刻《きざ》み……
涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや……

ややありて麪包《パン》の破片《かけら》を手にも取り、
さは冷《ひや》やかに噛《か》みしめて、来《きた》るべき日の
味《あぢ》もなき悲しきゆめをおもふとき……

なほもまた廉《やす》き石油《せきゆ》の香《か》に噎《むせ》び、
腐《くさ》れちらぼふ骸炭《コオクス》に足も汚《よ》ごれて、
小蒸汽《こじやうき》の灰《はひ》ばみ過《す》ぎし船腹《ふなばら》に
一《ひと》きは赤《あか》く輝《かが》やきしかの※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]枠《まどわく》を忍ぶとき……

月光《つきかげ》ははやもさめざめ……涙さめざめ……
十月《じふぐわつ》の暮れし片頬《かたほ》を
ほのかにもうつしいだしぬ。
[#地付き]四十一年十二月


  接吻の時

薄暮《くれがた》か、
日のあさあけか、
昼か、はた、
ゆめの夜半《よは》にか。

そはえもわかね、燃《も》えわたる若き命《いのち》の眩暈《めくるめき》、
赤き震慄《おびえ》の接吻《くちつけ》にひたと身《み》顫《ふる》ふ一刹那《いつせつな》。

あな、見よ、青き大月《たいげつ》は西よりのぼり、
あなや、また瘧《ぎやく》病《や》む終《はて》の顫《ふるひ》して
東へ落つる日の光、
大《おほ》ぞらに星はなげかひ、
青く盲《めし》ひし水面《みのも》にほ薬香《くすりが》にほふ。
あはれ、また、わが立つ野辺《のべ》の草は皆色も干乾《ひから》び、
折り伏せる人の骸《かばね》の夜《よ》のうめき、
人霊色《ひとだまいろ》の
木《き》の列《れつ》は、あなや、わが挽歌《ひきうた》うたふ。

かくて、はや落穂《おちぼ》ひろひの農人《のうにん》が寒き瞳よ。
歓楽《よろこび》の穂のひとつだに残《のこ》さじと、
はた、刈り入るる鎌の刃《は》の痛《いた》き光よ。
野のすゑに獣《けもの》らわらひ、
血に饐《す》えて汽車《きしや》鳴き過《す》ぐる。

あなあはれ、あなあはれ、
二人《ふたり》
前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北原 白秋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング