》の熱味《ほてり》嗅《か》ぎつつも思ひぞいづる。
晩秋《おそあき》の空ゆく黄雲《きぐも》、畑《はた》のいろ、見る眼《め》のどかに
夕凪《ゆふなぎ》の沖に帆あぐる蜜柑《みかん》ぶね、暮れて入る汽笛《ふえ》。
温かき南の島の幼子《をさなご》が夢のかずかず。

また思ふ、柑子《かうじ》の店《たな》の愛想《あいそ》よき肥満《こえ》たる主婦《あるじ》、
あるはまた顔もかなしき亭主《つれあひ》の流《なが》す新内《しんない》、
暮《く》れゆけば紅《あか》き夜《よ》の灯《ひ》に蒸《む》し薫《く》ゆる物の香《か》のなか、
夕餉時《ゆふげどき》、街《まち》に入り来《く》る旅人がわかき歩みを。

さては、われ、岡の木《こ》かげに夢心地《ゆめここち》、在《あ》りし静けさ
忍ばれぬ。目籠《めがたみ》擁《かか》へ、黄金《こがね》摘《つ》み、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に鈴《すず》の清《すず》しき、鳴りひびく沈黙《しじま》の声音《いろね》。

柴《しば》はまた音《おと》して爆《は》ぜぬ、燃《も》えあがる炎《ほのほ》のわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫《かをり》のなかに、
箸とりて笑《ゑ》らぐ赤ら頬《ほ》、夕餉《ゆふげ》盛《も》る主婦《あるじ》、家の子、
皆、古き喜劇《きげき》のなかの姿《すがた》なり。涙ながるる。
[#地付き]三十九年五月


  内陣

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ほのかなる香炉《かうろ》のくゆり、
日のにほひ、燈明《みあかし》のかげ、――
[#ここで字下げ終わり]

文月《ふづき》のゆふべ、蒸し薫《くゆ》る三十三間堂《さんじふさんげんだう》の奥《おく》
空色《そらいろ》しづむ内陣《ないぢん》の闇ほのぐらき静寂《せいじやく》に、
千一体《せんいつたい》の観世音《くわんぜおん》かさなり立たす香《か》の古《ふる》び
いと蕭《しめ》やかに後背《こうはい》のにぶき列《つらね》ぞ白《しら》みたる。

[#ここから2字下げ]
いづちとも、いつとも知らに、
かすかなる素足《すあし》のしめり。

そと軋《きし》むゆめのゆかいた
なよらかに、はた、うすらかに。

ほのめくは髪のなよびか、
衣《きぬ》の香《か》か、えこそわかたね。

女子《をみなご》の片頬《かたほ》のしらみ
忍びかの息《いき》の香《か》ぞする。

舞ごろも近づくなべに、
うつらかにあかる薄闇《うすやみ》。

初恋の燃《も》ゆるためいき、
帯の色、身内《みうち》のほてり。
[#ここで字下げ終わり]

だらり[#「だらり」に傍点]の姿《すがた》おぼろかになまめき薫《く》ゆる舞姫《まひひめ》の
ほのかに今《いま》したたずめば、本尊仏《ほんぞんぶつ》のうすあかり
静《しづ》かなること水のごと沈《しづ》みて匂ふ香《か》のそらに、
仰《あふ》ぐともなき目見《まみ》のゆめ、やはらに涙さそふ時《とき》。

[#ここから2字下げ]
甍《いらか》より鴿《はと》か立ちけむ、
はたはたとゆくりなき音《ね》に。

ふとゆれぬ、長《たけ》の振袖《ふりそで》
かろき緋《ひ》のひるがへりにぞ、

ほのかなる香炉《かうろ》のくゆり、
日のにほひ、燈明《みあかし》のかげ、――

もろもろの光はもつれ、
あな、しばし、闇にちらぼふ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]四十年七月


  懶き島

明けぬれどものうし。温《ぬる》き土《つち》の香を
軟風《なよかぜ》ゆたにただ懈《たゆ》く揺《ゆ》り吹くなべに、
あかがねの淫《たはれ》の夢ゆのろのろと
寝恍《ねほ》れて醒《さ》むるさざめ言《ごと》、起《た》つもものうし。

眺むれどものうし、のぼる日のかげも、
大海原《おおうなばら》の空|燃《も》えて、今日《けふ》も緩《ゆる》ゆる
縦《たて》にのみ湧《わ》くなる雲の火のはしら
重《おも》げに色もかはらねば見るもものうし。

行きぬれどものうし、波ののたくりも、
懈《たゆ》たき砂もわが悩《なやみ》ものうければぞ、
信天翁《あはうどり》もそろもそろの吐息《といき》して
終日《ひねもす》うたふ挽歌《もがりうた》きくもものうし。

寝《ね》そべれどものうし、円《まろ》に屯《たむろ》して
正覚坊《しやうがくばう》の痴《しれ》ごこち、日を嗅《か》ぎながら
女らとなすこともなきたはれごと、
かくて抱けど、飽《あ》きぬれば吸ふもものうし。

貪《むさぼ》れどものうし、椰子《やし》の実《み》の酒も、
あか裸《はだか》なる身の倦《た》るさ、酌《く》めども、あほれ、
懶怠《をこたり》の心の欲《よく》のものうげさ。
遠雷《とほいかづち》のとどろきも昼はものうし。

暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、
益《えう》なし、あるは木を擦《す》りて火ともすわざも。
空腹《ひだるげ》の心は暗《くら》きあなぐらに
蝮《
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