はみ》のうねりのにほひなし、入れどものうし。
ああ、なべてものうし、夜《よる》はくらやみの
濁れる空に、熟《う》みつはり落つる実のごと
流星《すばるぼし》血を引き消ゆるなやましさ。
一人《ひとり》ならねど、とろにとろ、寝《ね》れどものうし。
[#地付き]四十年十二月
灰色の壁
灰色《はいいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色《いろ》。
臘月《らふげつ》の十九日《じふくにち》、
丑満《うしみつ》の夜《よ》の館《やかた》。
龕《みづし》めく唐銅《からかね》の櫃《ひつ》の上《うへ》、
燭《しよく》青うまじろがずひとつ照《て》る。
時にわれ、朦朧《もうろう》と黒衣《こくえ》して
天鵝絨《びろうど》のもの鈍《にぶ》き床《ゆか》に立ち、
ひたと身は鉄《てつ》の屑《くず》
磁石《じしやく》にか吸はれよる。
足はいま釘《くぎ》つけに痺《しび》れ、かの
黄泉《よみ》の扉《と》はまのあたり額《ぬか》を圧《お》す。
灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色《いろ》。
暗澹《あんたん》と燐《りん》の火し
奈落《ならく》へか虚《うつろ》する。
表面《うはべ》ただ古地図《ふるちづ》に似て煤《すす》け、
縦横《たてよこ》にかず知れず走る罅《ひび》
青やかに火光《あかり》吸ひ、じめじめと
陰湿《いんしつ》の汗《あせ》うるみ冷《ひ》ゆる時、
鉄《てつ》の気《き》はうしろより
さかしまに髪を梳《す》く。
はと竦《すく》む節々《ふしふし》の凍《こほ》る音《おと》。
生きたるは黒漆《こくしつ》の瞳のみ。
灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色《いろ》。
熟視《みつ》む、いま、あるかなき
一点《いつてん》の血の雫《しづく》。
朱《しゆ》の鈍《にば》み星のごと潤味《うるみ》帯《お》び
光る。聞く、この暗き壁ぶかに
くれなゐの皷《つづみ》うつ心《しん》の臓《ざう》
刻々《こくこく》にあきらかに熱《ほて》り来《く》れ。
血けぶり。刹那《せつな》ほと
かすかなる人の息《いき》。
みるがまに罅《ひび》はみなつやつやと
金髪《きんぱつ》の千筋《ちすぢ》なし、さと乱《みだ》る。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色。
なほ熟視《みつ》む。……髣髴《はうふつ》と
浮びいづ、女の頬《ほ》
大理石《なめいし》のごと腐《くさ》れ、仰向《あふの》くや
鼻《はな》冷《ひ》えてほの笑《わら》ふちひさき歯
しらしらと薄玻璃《うすはり》の音《ね》を立つる。
眼《め》をひらく。絶望《ぜつまう》のくるしみに
手はかたく十字《じふじ》拱《く》み、
みだらなる媚《こび》の色
きとばかり。燭《しよく》の火の青み射《さ》し、
銀色《ぎんいろ》の夜《よ》の絹衣《すずし》ひるがへる。
灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐《おそ》ろしき一面《いちめん》の壁《かべ》の色《いろ》。
『彼。』とわが憎悪心《ぞうをしん》
むらむらとうちふるふ。
一斉《いつせい》に冷血《れいけつ》のわななきは
釘《くぎ》つけの身を逆《さか》にゑぐり刺《さ》す。
ぎく[#「ぎく」に傍点]と手は音《おと》刻《きざ》み、節《ふし》ごとに
機械《からくり》のごと動《うご》く。いま怪《あや》し、
おぼえあるくらがりに
落ちちれる埴《はに》と鏝《こて》。
つ[#「つ」に傍点]と取るや、ひとつ当《あ》て、左《ひだり》より
額《ぬか》をまづひしひしと塗《ぬ》りつぶす。
灰色《はひいろ》の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色。
朱《しゆ》のごとき怨念《をんねん》は
燃《も》え、われを凍《こほ》らしむ。
刹那《せつな》、かの驕《おご》りたる眼鼻《めはな》ども
胸かけて、生《なま》ぬるき埴《はに》の色
ひと息に鏝《こて》の手に葬《はうむ》られ
生《い》きながら苦《くる》しむか、ひくひくと
うち皺む壁の罅《ひび》、
今、暗き他界《たかい》より
凄きまで面《おも》変《かは》り、人と世を
呪《のろ》ふにか、すすりなき、うめきごゑ。
灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色。
悪業《あくごふ》の終《をは》りたる
時に、ふとわれの手は
物|握《にぎ》るかたちして見出《みいだ》さる。
ながむれば埴《はに》あらず、鏝《こて》もなし。
ただ暗き壁の面《おも》冷々《ひえびえ》と、
うは湿《しめ》り、一点《いつてん》の血ぞ光る。
前《さき》の世の恋か、なほ
骨髄《こつずゐ》に沁みわたる
この怨恨《うらみ》、この呪咀《のろひ》、まざまざと
人ひとり幻影《まぼろし》に殺したる。
灰色《はひいろ》の暗《くら》き壁、見るはただ
恐ろしき一面《いちめん》の壁の色《いろ》。
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