き木の実

暗《くら》きこころのあさあけに、
あかき木《こ》の実《み》ぞほの見ゆる。
しかはあれども、昼はまた
君といふ日にわすれしか。
暗《くら》きこころのゆふぐれに、
あかき木《こ》の実《み》ぞほの見ゆる。
[#地付き]四十年十月


  かへりみ

みかへりぬ、ふたたび、みたび、
暮れてゆく幼《をさな》の歩《あゆみ》
なに惜《をし》みさしもたゆたふ。
あはれ、また、野辺《のべ》の番紅花《さふらん》
はやあかきにほひに満つを。
[#地付き]四十年十二月


  なわすれぐさ

面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ぎぬ》のにほひに洩《も》れて、
その眸《ひとみ》すすり泣くとも、――
空《そら》いろに透《す》きて、葉かげに
今日《けふ》も咲く、なわすれの花。
[#地付き]四十一年五月


  わかき日の夢

水《みづ》透《す》ける玻璃《はり》のうつはに、
果《み》のひとつみづけるごとく、
わが夢は燃《も》えてひそみぬ。
ひややかに、きよく、かなしく。
[#地付き]四十一年五月


  よひやみ

うらわかきうたびとのきみ、
よひやみのうれひきみにも
ほの沁むや、青みやつれて
木のもとに、みればをみなも。
な怨みそ。われはもくせい、
ほのかなる花のさだめに、
目見《まみ》しらみ、うすらなやめば
あまき香《か》もつゆにしめりぬ。
さあれ、きみ、こひのうれひは
よひのくち、それもひととき、
かなしみてあらばありなむ、
われもまた。――月はのぼれり。
[#地付き]三十九年四月


  一瞥

大月《たいげつ》は赤くのぼれり。
あら、青む最愛《さいあい》びとよ。
へだてなき恋の怨言《かごと》は
見るが間《ま》に朽ちてくだけぬ。
こは人か、
何らの色《いろ》ぞ、
凋落《てうらく》の鵠《くぐひ》か、鷭《ばん》か。
後《しりへ》より、
冷笑《れいせう》す、あはれ、一瞥《いちべつ》。
我《われ》、こころ君を殺《ころ》しき。
[#地付き]三十九年七月


  旅情

[#ここから5字下げ]
――さすらへるミラノひとのうた。
[#ここで字下げ終わり]

零落《れいらく》の宿泊《やどり》はやすし。
海ちかき下層《した》の小部屋《こべや》は、
ものとなき鹹《しほ》の汚《よ》ごれに、
煤《すす》けつつ匂《にほ》ふ壁紙《かべがみ》。
広重《ひろしげ》の名をも思《おもひ》出づ。

ほどちかき庖厨《くリや》のほてり、
絵草子《ゑざうし》の匂《にほひ》にまじり
物《もの》あぶる騒《さや》ぎこもごも、
焼酎《せうちう》のするどき吐息《といき》
針《はり》のごと肌《はだ》刺《さ》す夕《ゆふべ》。

ながむれば葉柳《はやなぎ》つづき、
色硝子《いろがらす》濡《ぬ》るる巷《こうぢ》を、
横浜《はま》の子が智慧《ちゑ》のはやさよ、
支那料理《しなれうり》、よひの灯影《ほかげ》に
みだらうたあはれに歌《うた》ふ。

ややありて月はのぼりぬ。
清らなる出窓《でまど》のしたを
からころと軋《きし》む櫓《ろ》の音《おと》。
鉄格子《てつかうし》ひしとすがりて
黄金髪《こがねがみ》わかきをおもふ。

数《かず》おほき罪に古《ふ》りぬる
初恋《はつこひ》のうらはかなさは
かかる夜《よ》の黒《くろ》き波間《なみま》を
舟《ふな》かせぎ、わたりさすらふ
わかうどが歌《うた》にこそきけ。

色《いろ》ふかき、ミラノのそらは
日本《ひのもと》のそれと似《に》たれど、
ここにして摘《つ》むによしなき
素馨《ジエルソミノ》、海のあなたに
接吻《くちつけ》のかなしきもあり。

国を去り、昨《きそ》にわかれて
逃《のが》れ来し身にはあれども、
なほ遠く君をしぬべば、
ほうほう……と笛はうるみて、
いづらへか、黒船《くろふね》きゆる。

廊下《らうか》ゆく重き足音《あしおと》。
みかへれば暗《くら》きひと間《ま》に
残《のこ》る火は血のごと赤く、
腐《くさ》れたる林檎《りんご》のにほひ、
そことなく涙をさそふ。
[#地付き]三十九年九月


  柑子

蕭《しめ》やかにこの日も暮《く》れぬ、北国《きたぐに》の古き旅籠屋《はたごや》。
物《もの》焙《あ》ぶる炉《ゐろり》のほとり頸《うなじ》垂れ愁《うれ》ひしづめば
漂浪《さすらひ》の暗《くら》き山川《やまかは》そこはかと。――さあれ、密《ひそ》かに
物ゆかし、わかき匂《にほひ》のいづこにか濡れてすずろぐ。

女《め》あるじは柴《しば》折り燻《くす》べ、自在鍵《じざいかぎ》低《ひく》くすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顔して旅《たび》語る商人《あきうど》ふたり。
傍《かたへ》より、笑《ゑ》みて静かに籠《かたみ》なる木の実|撰《え》りつつ、
家《いへ》の子は卓《しよく》にならべぬ。そのなかに柑子《かうじ》の匂《にほひ》。

ああ、柑子《かうじ》、黄金《こがね
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