えぬ。
沈痛《ちんつう》の呻吟《うめき》この時、
闇重き夜色《やしよく》のなかに
蓬髪《ほうはつ》の男|蹌踉《よろめ》き
落涙《らくるゐ》す、蒼白《あをじろ》き頬《ほ》に。
[#地付き]三十九年八月


  立秋

憂愁《いうしう》のこれや野の国、
柑子《かうじ》だつ灰色のすゑ
夕汽車《ゆふぎしや》の遠音《とほね》もしづみ、
信号柱《シグナル》のちさき燈《ともしび》
淡々《あはあは》とみどりにうるむ。

ひとしきり、小野《をの》に細雲《ほそぐも》。
南瓜畑《かぼちやばた》北へ練《ね》りゆく
旗赤き異形《ゐぎやう》の列《れつ》は
戯《おど》けたる広告《ひろめ》の囃子《はやし》
賑《にぎ》やかに遠くまぎれぬ。

うらがなし、落日《いりひ》の黄金《こがね》
片岡《かたおか》の槐《ゑんじゆ》にあかり、
鳴きしきる蜩《かなかな》、あはれ
誰《たれ》葬《はふ》るゆふべなるらむ。
[#地付き]三十九年八月


  玻璃罎

うすぐらき窖《あなぐら》のなか、
瓢状《ひさごなり》、なにか湛《たた》へて、
十《とを》あまり円《まろ》うならべる
夢《ゆめ》いろの薄《うす》ら玻璃罎《はりびん》。

静《しづ》けさや、靄《もや》の古《ふる》びを
黄蝋《わうらふ》は燻《くゆ》りまどかに
照りあかる。吐息《といき》そこ、ここ、
哀楽《あいらく》のつめたきにほひ。

今《いま》しこそ、ゆめの歓楽《くわんらく》
降《ふ》りそそげ。生命《いのち》の脈《なみ》は
ゆらぎ、かつ、壁にちらほら
玻璃《はり》透《す》きぬ、赤き火の色。
[#地付き]三十九年八月


  微笑

朧月《ろうげつ》か、眩《まば》ゆきばかり
髪むすび紅《あか》き帯して
あらはれぬ、春夜《しゆんや》の納屋《なや》に
いそいそと、あはれ、女子《をみなご》。

あかあかと据《す》ゑし蝋燭《らふそく》
薔薇《さうび》潮《さ》す片頬《かたほ》にほてり、
すずろけば夜霧《よぎり》火のごと、
いづこにか林檎《りんご》のあへぎ。

嗚呼《ああ》愉楽《ゆらく》、朱塗《しゆぬり》の樽《たる》の
差口《だぶす》抜き、酒つぐわかさ、
玻璃器《ぎやまん》に古酒《こしゆ》の薫香《かをりか》
なみなみと……遠く人ごゑ。

やや暫時《しばし》、瞳かがやき、
髪かしげ、微笑《ほほゑ》みながら
なに紅《あか》む、わかき女子《をみなご》。
母屋《もや》にまた、おこる歓語《さざめき》……
[#地付き]三十九年八月


  砂道

日の真昼《まひる》、ひとり、懶《ものう》く
真白なる砂道《さだう》を歩む。
市《いち》遠く赤き旗見ゆ、
風もなし。荒蕪地《かうぶち》つづき、
廃《すた》れ立つ礎《いしずゑ》燃《も》えて
烈々《れつれつ》と煉瓦《れんぐわ》の火気《くわき》に
爛《ただ》れたる果実《くわじつ》のにほひ
そことなく漂《ただよ》湿《しめ》る。

数百歩、娑婆《しやば》に音なし。

ふと、空に苦熱《くねつ》のうなり、
見あぐれば、名しらぬ大樹《たいじゆ》
千万《ちよろづ》の羽音《はおと》に糜《しら》け、
鈴状《すずなり》に熟《う》るる火の粒
潤《しめ》やかに甘き乳《ち》しぶく。
楽欲《げうよく》の渇《かわき》たちまち
かのわかき接吻《くちつけ》思ひ、
目ぞ暈《くら》む。

[#ここから5字下げ]
真夏の原に
[#ここで字下げ終わり]
真白《ましろ》なる砂道《さだう》とぎれて
また続く恐怖《おそれ》の日なか、
寂《せき》として過《よ》ぎる人なし。
[#地付き]三十九年八月


  凋落

寂光土《じやくくわうど》、はたや、墳塋《おくつき》、
夕暮《ゆふぐれ》の古き牧場《まきば》は
なごやかに光黄ばみて
うつらちる楡《にれ》の落葉《らくえふ》、
そこ、かしこ。――暮秋《ぼしう》の大日《おほひ》
あかあかと海に沈めば、
凋落《てうらく》の市《いち》に鐘鳴り、
絡繹《らくえき》と寺門《じもん》をいづる
老若《らうにやく》の力《ちから》なき顔、
あるはみな青き旗垂れ
灰《はひ》濁《だ》める水路《すゐろ》の靄に
寂寞《じやくまく》と繋《かか》る猪木舟《ちよきぶね》、
店々の装飾《かざり》まばらに、
甃石《いしだたみ》ちらほら軋る
空《から》ぐるま、寒き石橋。――
鈍《にぶ》き眼《め》に頭《かしら》もたげて
黄牛《あめうし》よ、汝《な》はなにおもふ。
[#地付き]三十九年八月


  晩秋

神無月、下浣《すゑ》の七日《しちにち》、
病《や》ましげに落日《いりひ》黄ばみて
晩秋《ばんしう》の乾風《からかぜ》光り、
百舌《もず》啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の上枝《ほづえ》を
実はひとつ赤く落ちたり。
刹那《せつな》、野を北へ人霊《ひとだま》、
鉦《かね》うちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる夕《ゆふべ》に。
[#地付き]三十九年五月


  あか
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