香ひの狩猟者
北原白秋

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)萎《しな》へる

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(例)[#「つつみがまえ+にすい」、第3水準1−14−75、237−12]
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     1

幽かに香ひはのぼる。蕾のさきが尖つてゐるのは内からのぼる香ひをその頂点でくひとめてゐるのだ。花がひらいた時は香ひもひらいてしまふ。残りの香のみの花を人は観てゐる。

     2

開いた朝顔が萎《しな》へると蕾のやうになる。それもちぢれて蕾の巻いた尖りは喪はれ、香ひのみか色までが揉みくちやだ。その上に落ち散つた象《すがた》を紙巻煙草の吸殻のやうだといへば乾く。火鉢の灰の中に散らばる紙巻煙草の吸殻を朝顔の散り花のやうだといへば香ひがつく。ものは言ひやう、喩は感じ方なのだ。

     3

風が香ひをつたへるのでない。香ひが風をすずろかせるのだ。

     4

風上に置けぬ臭ひなら、風下にも置いてよい筈はない。風はともあれ、臭ひは十方吹き廻しだからである。

     5

音波の無いところに香ひはない。リズムの無いところに香ひは揺り曳《ひ》かない。真空鐘の中には香ひは無い。

     6

香ひの流れといふものが眼に見えるなら、どんなに微塵の感情が泳いでゐるか色に現れるであらう、あの金粉酒のやうに。

     7

うら声といふのがある。象《すがた》には影が添ふ。香ひにも何かと湿るものがある。銀箔の裏は黝い。裏漉しの香ひそのものこそ香ひらしく染み出して来る。

     8

香ひはほろびない。花は了へても香ひはのこる。始めもなく終りも無い。消えるやうに思へるのは色を眼のみで観る人の錯覚である。香ひは染みこむ、分解する。

     9

君は香ひを鼻で嗅いでゐるのか。香ひは耳で聞き、皮膚で聞き、心頭で風味すべきものなのを。

     10

香ひは鼻でのみ嗅ぐものなら、人は猫にも劣るであらう。だがね、猫は鼻で嗅ぐよりはいつそ食べてる。

     11

香ひに神を聞く人こそ上無き感性の人であらう。詩も風味すべきは香ひにある。

     12

蹠《あしのうら》で香ひを聞くもの、それは鼠のみではあるまい。

     13

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