六十一種といふ名香の中に、紅塵、富士煙《ふじのけぶり》などは名からして煙つてゐる。一字の月、卓、花は何と近代の新感情を盛ることか。ことに隣家《りんか》にいたつては、秋深うして思ひ切なるものがある。
14
香ひをこめた色、それが匂なのだらう。鴎外先生は匂をつかはず、常に※[#「つつみがまえ+にすい」、第3水準1−14−75、237−12]と書かれた。私も※[#「つつみがまえ+にすい」、第3水準1−14−75、237−13]としてみたが、どうにも香ひがこもらぬやうな気がして、このごろはまた匂に還つた。
15
白薔薇はその葉を噛んでも白薔薇の香ひがする。その香ひは枝にも根にも創られてゐる。花とはじめて香ひが開くのではない。白薔薇の香ひそのものがその花を咲かすのである。
16
手についた香ひなら墓場まで持つてゆかねばなるまい。
17
香ひにも、眼があるやうな気がする。光葉《てりは》の茨《ばら》の花むらに頭を突つ込んでみい。
18
香魚《あゆ》は魚なのか香ひなのか。鮎鷹の胃嚢なら知つてゐよう。山女魚《やまめ》は魚なのか、水の気なのか、こんがりとでも焼いたら、その香ひはとろ火で反りかへる。奥さんめしあがつてみてください。
19
鼻につくからといつて香ひのせゐにするのはひどい。あまり近寄つたり、馴れつこにおなりなさらぬがよい。
20
梅に鶯が類型で古典的だといふなら、外の小鳥をとまらせて御覧なさい。なかなかしつくりとはゆかぬものだ。したがまた梅に鶯ばかりでもどういふものかな。
21
手と歳月で磨いた古鏡には香ひがあらう。むしろ魂で磨いてあるからだ。曇つたら曇つたでなほとゆかしい香ひはこもる。あの硝子に水銀と朱をなすつた板の鏡の中には、たとひ色の世界は映つても香ひは染み入りさうにもない。春雨でも外《そと》にけぶつてゐればまたちがふ味もこもるであらうが。
22
香ひを嗅ぐにも角度がある。香ひの光を三稜鏡《プリズム》に透かして見たら、目も綾なものがあらう。
23
香ひからはじまる夢もある。しかし多くは白日の夢だ。香ひはロマンチシズムの濛気のやうで、その実きはめてリアルなものだ。何れをもとりあつめて深くなるほど悩ましい。
24
香ひの
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