ピアノは、一つ一つキイを叩くごとに、一つ一つ記憶が奏鳴する。

     25

一つの香ひといふものは有り得ない。一つの花の香ひと云つても、それは幾つかの香ひが調合されて、えならぬ一つの香ひぶくろを膨らませてゐるのだ。

     26

水の中で石を抱けば軽々としたものだが、香ひの海の中で何を擁へたら軽くなるのだ。

     27

無上の香ひは天にあるやうに思はれるのか、香ひは極楽の象徴である時に、地獄はいつも色で染められてゐる。香ひにも身を焼く炎はあるのだが。

     28

清浄高潔な香ひは鬼神をも泣かしめる。しかしまた胃嚢をも咽喉元まで引きあげる香ひもある。鴉の好きな香ひもある。

     29

日脚、雨脚、雲脚といふ。ならば、香ひの脚といふ言葉もあつていい。ところで香ひには臍がある。

     30

白い手の猟人とは、あまりに果敢ない香ひの狩猟者なのだ。

     31

香ひが歩いて来る、ただ香ひのみが歩いて来る。

     32

何が香ひなのか。香ひ自身は知つてゐないのだ。



底本:「日本の名随筆48・香」作品社
   1986(昭和61)年10月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第9刷発行
底本の親本:「香ひの狩猟者」河出書房
   1942(昭和17)年9月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年10月9日公開
青空文庫作成ファイル:
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