桐の花とカステラ
北原白秋
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吹笛《フルート》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)実際|触《さは》つて
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+解」、第3水準1−86−22]
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桐の花とカステラの時季となつた。私は何時も桐の花が咲くと冷めたい吹笛《フルート》の哀音を思ひ出す。五月がきて東京の西洋料理店《レストラント》の階上にさはやかな夏帽子の淡青い麦稈のにほひが染みわたるころになると、妙にカステラが粉つぽく見えてくる。さうして若い客人のまへに食卓の上の薄いフラスコの水にちらつく桐の花の淡紫色とその暖味のある新しい黄色さとがよく調和して、晩春と初夏とのやはらかい気息のアレンヂメントをしみじみと感ぜしめる。私にはそのばさばさしてどこか手さはりの渋いカステラがかかる場合何より好ましく味はれるのである。粉つぽい新らしさ、タツチのフレツシユな印象、実際|触《さは》つて見ても懐かしいではないか。同じ黄色な菓子でも飴のやうに滑《すべ》つこいのはぬめぬめした油絵や水で洗ひあげたやうな水彩画と同様に近代人の繊細な感覚に快い反応を起しうる事は到底不可能である。
新様の仏蘭西《(ふらんす)》芸術のなつかしさはその品の高い鋭敏な新らしいタツチの面白さにある。一寸触つても指に付いてくる六月の棕梠《(しゆろ)》の花粉のやうに、月夜の温室の薄い硝子のなかに、絶えず淡緑の細花を顫はせてゐるキンギン草のやうに、うら若い女の肌の弾力のある軟味に冷々とにじみいづる夏の日の冷めたい汗のやうに、近代人の神経は痛いほど常に顫へて居らねばならぬ。私はそんな風に感じたのである。
*
短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代のセンチメントの精《エツキス》である。古いけれども棄てがたい、その完成した美くしい形は東洋人の二千年来の悲哀のさまざまな追憶《おもひで》に依てたとへがたない悲しい光沢をつけられてゐる。その面には玉虫のやうな光やつつましい杏仁水《(きようにんすゐ)》のやうな匂乃至一絃琴や古い日本の笛のやうな素朴な Lied のリズムが動《うご》いてゐる。なつかしいではないか、若いロセツチが生命の家のよろこびを古いソンネツトの形式に寄せたやうに私も奔放自由なシムフオニーの新曲に自己の全感覚を響かすあとから、寥しい一絃の古琴を新らしい悲しい指さきでこころもちよく爪弾きしたところで少しも差支へはない筈だ。市井の俗人すらその忙がしい銀行事務の折折には一鉢のシネラリヤの花になにとはなきデリケエトな目ざしを送ることもあるではないか。私はそんな風に短歌の匂に親しみたいのである。
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その小さい緑の古宝玉はよく香料のうつり香の新しい汗のにじんだ私の掌にも載り、ウイスキイや黄色いカステラの付いた指のさきにも触れる。而して時と処と私の気分の相違により、ある時は桐の花の淡い匂を反射し、また草わかばの淡緑にも映り、或はあるかなきかの刺のあとから赤い血の一滴をすら点ぜられる。
私は無論この古宝玉の優しい触感を愛してゐる。而巳《(しかのみ)》ならず近代の新しいそして繊細な五官の汗と静こころなき青年の濃《(こまや)》かな気息に依て染々《(しみじみ)》とした特殊の光沢を附加へたいのである。併し私はその完成された形の放つ深い悲哀を知つてゐる。実際完成されたものほどかなしいものはあるまい。四十過ぎた世帯くづしの仲居が時折わかい半玉のやうなデリケエトな目つきするほどさびしく見られるものはない。わかい人のこころはもつと複雑かぎりなき未成の音楽に憧がれてゐる。マネにゆき、ドガにゆき、ゴオガンにゆき、アンドレエエフにゆき、シユトラウス、ボオドレエル、ロオデンバツハの感覚と形式にゆく。かの小さな緑玉《エメロウド》の古色は私がそれらの強烈な色彩の歓楽に疲れたとき、やるせない魂《たましひ》の余韻を時としてしんみりと指の間から通はすだけの事である。即かりそめの病に飲む一杯の古いシヤンペンの味である。
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私の哀しい Nostalgia がまた一絃の古琴にたまたま微かな月光の如くつかずはなれず付纏ふ時に、ある若い人達の集団はこれを唯一の楽器として、行住座臥、凡ての清新な情緒《センチメント》と凡ての苦い神経の悦楽とを委ねて満足してゐる。新人の悲哀は古い詠嘆の絃にのぼせて象徴の世界を観照すべくあまりに複雑であり、深刻であり、而《(し)》かも而かも傷ましいほど痛烈である、わが友よ、古い楽器の悲哀を知れ。さうしてその幽かな哀調の色に執し過ぎて些かだにその至醇なる謙譲の美徳を傷つく
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