るな。
ある時はビーヤホールのかたかげにその慎しい音色を懐かしむこともある。しかし私には白昼夏の光のふりそそぐ日比谷公園の音楽堂の上に、凡ての満足と充実した凡ての生の歓喜とを以てその古琴独奏の矜《(ほこり)》を衆人の目前に曝すだけの勇気はない。そはあまりに無惨である。新人よ、汝の意の趣くままに、汝の心境の移りゆくままに、ある時は新しい戯曲に、小説に、パントマイムに、秋の日のはかないロマンツアに、太棹に、匈牙利《(ハンガリ)》古曲に、ピアノソロに、或は菅絃楽《オーケストラ》の高き調にゆき、銀笛を吹き、道化た面して弄玩品《おもちや》の鉄琴をもうちたたけ。さうして時々その古い一絃の古琴のうへに疲れたる汝の柔軟《しなや》かな白い手をさしのべよ。遊び尽くした小鳥の日暮れて古巣の梢にかへるやうに、日光と快楽とに倦んだ心のさみしい灯心草の陰影をもとめるやうに。
*
古い小さい緑玉《エメロウド》は水晶の函に入れて刺戟の鋭い洋酒やハシツシユの罎のうしろにそつと秘蔵して置くべきものだ。古い一絃琴は仏蘭西わたりのピアノの傍の薄青い陰影のなかにたてかけて、おほかたは静かに眺め入るべきものである。私は短歌をそんな風に考へてゐる。
さうして真に愛してゐる。
*
私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いてゐるテレビン油のしめりであらねばならぬ。その寂しい湿潤《うるほひ》が私のこころの小さい古宝玉の緑であり、一絃琴の瀟洒な啜り泣である。
私の新しいデリケエトな素朴でソフトな官能の余韻はこの古い本来の哀調の面目を傷けぬほどの弱さに常に顫へて居らねばならぬ。
而《(そ)》してしみじみと桐の花の哀亮をそへカステラの粉つぽい触感を加へて見たいのである。
*
単なる純情詩の時代は過ぎた。私らはシムプルな情緒そのものを素朴な古人のやうに詠歎することに最早や少からぬ不満足を感ずる。赤子の如く凡てをフレツシユに感ずる心はまた品の高い文明人の渋いアートに醇化されねばならぬ。私は涙を惜しむ。何らの修飾なく声あげて泣く人の悲哀より一木一草の感覚にも静かに涙さしぐむ品格のゆかしさが一段と懐しいではないか。実際、思ふままのこころを挙げてうちつけに掻き口説くよりも、私はじつと握りしめた指さきの微細な触感にやるせない片恋の思をしみじみと通はせたいのである。
鳴かぬ小鳥のさびしさ……それは私の歌を作るときの唯一無二の気分である。私には鳴いてる小鳥のしらべよりもその小鳥をそそのかして鳴かしめるまでにいたる周囲のなんとなき空気の捉へがたい色やにほひがなつかしいのだ、さらにまだ鳴きいでぬ小鳥鳴きやんだ小鳥の幽かな月光と草木の陰影のなかに、ほのかな遠くの※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《(かし)》の花の甘い臭に刺戟されてじつと自分の悲哀を[#「悲哀を」は底本では「非哀を」]凝視めながら、細くて赤い嘴を顫してゐる気分が何に代へても哀ふかく感じられる。私は如何なるものにも風情ある空気の微動が欲しい。そのなかに桐の花の色もちらつかせ、カステラの手さはりも匂はせたいのである。
*
私の歌にも欲するところは気分である。陰影である、なつかしい情調の吐息である。……
(小さい藍色の毛虫が黄色な花粉にまみれて冷めたい亜鉛《(トタン)》のベンチに匐つてゐる…………)
私は歌を愛してゐる。さうしてその淡緑色の小さい毛虫のやうにしみじみとその私の気分にまみれて、拙《(つたな)》いながら真に感じた自分の歌を作つてゆく…………
五月が過ぎ、六月が来て私らの皮膚に柔軟《やはら》かなネルのにほひがやや熱く感じられるころとなれば、西洋料理店《レストラント》の白いテエブルクロスの上にも紫の釣鐘草と苦い珈琲《(コーヒー)》の時季が来る。
わたしはこのいつもの詩のやうになつた Essey を植物園の長い薄あかりのなかでいまやつと書き了へたところだ。
底本:「日本の名随筆 別巻30 短歌」作品社
1993(平成5)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「日本近代文学大系 第二八巻――北原白秋集」角川書店
1970(昭和45)年4月発行
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
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