七・一〇九六)、「昨日こそ年は極《は》てしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(巻十・一八四三)、「筑波根に雪かも降らる否をかも愛《かな》しき児ろが布《にぬ》ほさるかも」(巻十四・三三五一)。僻案抄《へきあんしょう》に、「只白衣を干したるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず」といったのは素直な解釈であり、燈に、「春はと人のたのめ奉れる事ありしか。又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが期《とき》を過ぎたりければ、その人をそゝのかし、その期おくれたるを怨《うら》ませ給ふ御心なるべし」と云ったのは、穿《うが》ち過ぎた解釈で甚だ悪いものである。こういう態度で古歌に対するならば、一首といえども正しい鑑賞は出来ない。
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ささなみの志賀《しが》の辛崎《からさき》幸《さき》くあれど大宮人《おほみやびと》の船《ふね》待《ま》ちかねつ 〔巻一・三〇〕 柿本人麿
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柿本人麿が、近江の宮(天智天皇大津宮)址《あと》の荒れたのを見て作った長歌の反歌である。大津宮(志賀宮)の址は、現在の大津市南滋賀町あたりだろうという説が有力で、近江の都の範囲は、其処から南へも延び、西は比叡山麓、東は湖畔|迄《まで》至っていたもののようである。此歌は持統三年頃、人麿二十七歳ぐらいの作と想像している。「ささなみ」(楽浪)は近江滋賀郡から高島郡にかけ湖西一帯の地をひろく称した地名であるが、この頃には既に形式化せられている。
一首は、楽浪《ささなみ》の志賀の辛崎は元の如く何の変《かわり》はないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊をした大宮人も居なくなった。それゆえ、志賀の辛崎が、大宮人の船を幾ら待っていても待ち甲斐《がい》が無い、というのである。
「幸《さき》くあれど」は、平安無事で何の変はないけれどということだが、非情の辛崎をば、幾らか人間的に云ったものである。「船待ちかねつ」は、幾ら待っていても駄目だというのだから、これも人間的に云っている。歌調からいえば、第三句は字余りで、結句は四三調に緊《し》まっている。全体が切実沈痛で、一点浮華の気をとどめて居らぬ。現代の吾等は、擬人法らしい表現に、陳腐《ちんぷ》を感じたり、反感を持ったりすることを止めて、一首全体の態度なり気魄《きはく》なりに同化せんことを努むべきである。作は人麿としては初期のものらしいが、既にかくの如く円熟して居る。
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ささなみの志賀《しが》の大曲《おほわだ》よどむとも昔《むかし》の人《ひと》に亦《また》も逢はめやも 〔巻一・三一〕 柿本人麿
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右と同時に人麿の作ったもので、一首は、近江の湖水の大きく入り込んだ処、即ち大曲《おおわだ》の水が人恋しがって、人懐かしく、淀《よど》んでいるけれども、もはやその大宮人等に逢うことが出来ない、というのである。大津の京に関係あった湖水の一部の、大曲の水が現在、人待ち顔に淀んでいる趣である。然るに、「オホワダ」をば大海《おおわだ》即ち近江の湖水全体と解し、湖の水が勢多《せた》から宇治に流れているのを、それが停滞して流れなくなるとも、というのが、即ち「ヨドムトモ」であると仮定的に解釈する説(燈)があるが、それは通俗|理窟《りくつ》で、人麿の歌にはそういう通俗理窟で解けない歌句が間々あることを知らねばならぬ。ここの「淀むとも」には現在の実感がもっと活《い》きているのである。
この歌も感慨を籠めたもので、寧ろ主観的な歌である。前の歌の第三句に、「幸くあれど」とあったごとく、この歌の第三句にも、「淀むとも」とある、そこに感慨が籠められ、小休止があるようになるのだが、こういう云い方には、ややともすると一首を弱くする危険が潜むものである。然るに人麿の歌は前の歌もこの歌も、「船待ちかねつ」、「またも逢はめやも」と強く結んで、全体を統一しているのは実に驚くべきで、この力量は人麿の作歌の真率《しんそつ》的な態度に本づくものと自分は解して居る。人麿は初期から斯《こ》ういう優れた歌を作っている。
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いにしへの人《ひと》にわれあれや楽浪《ささなみ》の故《ふる》き京《みやこ》を見《み》れば悲《かな》しき 〔巻一・三二〕 高市古人
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高市古人《たけちのふるひと》が近江の旧都を感傷して詠《よ》んだ歌である。然るに古人の伝不明で、題詞の下に或書云|高市連黒人《たけちのむらじくろひと》と注せられているので、黒人の作として味う人が多い。「いにしへの人にわれあれや」は、当今の普通人ならば旧都の址《あと》を見てもこんなに悲しまぬであろうが、こんなに悲しいのは、古の世の人だからであろうかと、疑うが如くに感傷したのである。この主観句は、相当によいので棄て難いところがある。なお、巻三(三〇五)に、高市連黒人の、「斯《か》くゆゑに見じといふものを楽浪《ささなみ》の旧き都を見せつつもとな」があって、やはり上の句が主観的である。けれども、此等の主観句は、切実なるが如くにして切実に響かないのは何故であるか。これは人麿ほどの心熱が無いということにもなるのである。
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山川《やまかは》もよりて奉《つか》ふる神《かむ》ながらたぎつ河内《かふち》に船出《ふなで》するかも 〔巻一・三九〕 柿本人麿
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持統天皇の吉野行幸の時、従駕《じゅうが》した人麿の献《たてまつ》ったものである。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回(御在位中三十一回御譲位後一回)であるが、万葉集年表(土屋文明氏)では、五年春夏の交《こう》だろうと云っている。さすれば人麿の想像年齢二十九歳位であろうか。
一首の意は、山の神(山祇《やまつみ》)も川の神(河伯《かわのかみ》)も、もろ共に寄り来って仕え奉る、現神《あきつがみ》として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の滝《たぎ》の河内《かふち》に、群臣と共に船出したもう、というのである。
「滝《たぎ》つ河内《かふち》」は、今の宮滝《みやたき》附近の吉野川で、水が強く廻流している地勢である。人麿は此歌を作るのに、謹んで緊張しているから、自然歌調も大きく荘厳なものになった。上半は形式的に響くが、人麿自身にとっては本気で全身的であった。そして、「滝つ河内」という現実をも免《のが》していないものである。一首の諧調音を分析すれば不思議にも加行の開口音があったりして、種々勉強になる歌である。先師伊藤左千夫先生は、「神も人も相和して遊ぶ尊き御代の有様である」(万葉集新釈)と評せられたが、まさしく其通りである。第二句、原文「因而奉流」をヨリテ・ツカフルと訓んだが、ヨリテ・マツレルという訓もある。併しマツレルでは調《しらべ》が悪い。結句、原文、「船出為加母」は、フナデ・セスカモと敬語に訓んだのもある。
補記、近時土屋文明氏は「滝つ河内」はもっと下流の、下市《しもいち》町を中心とした越部、六田あたりだろうと考証した。
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英虞《あご》の浦《うら》に船乗《ふなの》りすらむをとめ等《ら》が珠裳《たまも》の裾《すそ》に潮《しほ》満《み》つらむか 〔巻一・四〇〕 柿本人麿
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持統天皇が伊勢に行幸(六年三月)遊ばされた時、人麿は飛鳥浄御原《あすかのきよみはら》宮(持統八年十二月六日藤原宮に遷居し給う)に留まり、その行幸のさまを思いはかって詠んだ歌である。初句、原文「嗚呼見浦爾」だから、アミノウラニと訓むべきである。併し史実上で、阿胡行宮《あごのかりみや》云々とあるし、志摩に英虞郡《あごのこおり》があり、巻十五(三六一〇)の古歌というのが、「安胡乃宇良《アゴノウラ》」だから、恐らく人麿の原作はアゴノウラで、万葉巻一のアミノウラは異伝の一つであろう。
一首は、天皇に供奉《ぐぶ》して行った多くの若い女官たちが、阿虞の浦で船に乗って遊楽する、その時にあの女官等の裳の裾が海潮に濡《ぬ》れるであろう、というのである。
行幸は、三月六日(陽暦三月三十一日)から三月二十日(陽暦四月十四日)まで続いたのだから、海浜で遊楽するのに適当な季節であり、若く美しい女官等が大和の山地から海浜に来て珍しがって遊ぶさまが目に見えるようである。そういう朗かで美しく楽しい歌である。然《し》かも一首に「らむ」という助動詞を二つも使って、流動的歌調を成就《じょうじゅ》しているあたり、やはり人麿一流と謂《い》わねばならない。「玉裳」は美しい裳ぐらいに取ればよく、一首に親しい感情の出ているのは、女官中に人麿の恋人もいたためだろうと想像する向もある。
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潮騒《しほさゐ》に伊良虞《いらご》の島辺《しまべ》榜《こ》ぐ船《ふね》に妹《いも》乗《の》るらむか荒《あら》き島回《しまみ》を 〔巻一・四二〕 柿本人麿
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前の続きである。「伊良虞《いらご》の島」は、三河|渥美《あつみ》郡の伊良虞崎あたりで、「島」といっても崎でもよいこと、後出の「加古の島」のところにも応用することが出来る。
一首は、潮が満ちて来て鳴りさわぐ頃、伊良虞の島近く榜《こ》ぐ船に、供奉してまいった自分の女も乗ることだろう。あの浪の荒い島のあたりを、というのである。
この歌には、明かに「妹」とあるから、こまやかな情味があって余所余所《よそよそ》しくない。そして、この「妹乗るらむか」という一句が一首を統一してその中心をなしている。船に慣れないことに同情してその難儀をおもいやるに、ただ、「妹乗るらむか」とだけ云っている、そして、結句の、「荒き島回を」に応接せしめている。
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吾背子《わがせこ》はいづく行《ゆ》くらむ奥《おき》つ藻《も》の名張《なばり》の山《やま》を今日《けふ》か越《こ》ゆらむ 〔巻一・四三〕 当麻麿の妻
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当麻真人麿《たぎまのまひとまろ》の妻が夫の旅に出た後詠んだものである。或は伊勢行幸にでも扈従《こじゅう》して行った夫を偲《しの》んだものかも知れない。名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。「奥つ藻の」は名張へかかる枕詞で、奥つ藻は奥深く隠れている藻だから、カクルと同義の語ナバル(ナマル)に懸けたものである。
一首の意は、夫はいま何処を歩いていられるだろうか。今日ごろは多分名張の山あたりを越えていられるだろうか、というので、一首中に「らむ」が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取っている。この「らむ」は、「朝踏ますらむ」あたりよりも稍軽快である。この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは万葉集の歌としては分かり好く口調も好いからであったが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあると謂っていいであろうか。併しそれでも古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山という現実を持って来たところ等に注意すべきである。
この歌は、巻四(五一一)に重出しているし、又集中、「後れゐて吾が恋ひ居れば白雲《しらくも》の棚引く山を今日か越ゆらむ」(巻九・一六八一)、「たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越ゆらむ」(巻十二・三一九三)、「息《いき》の緒《を》に吾が思《も》ふ君は鶏《とり》が鳴く東《あづま》の坂を今日か越ゆらむ」(同・三一九四)等、結句の同じものがあるのは注意すべきである。
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阿騎《あき》の野《ぬ》に宿《やど》る旅人《たびびと》うちなびき寐《い》も寝《ぬ》らめやも古《いにしへ》おもふに 〔巻一・四六〕 柿本人麿
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軽皇子《かるのみこ》が阿騎野(宇陀郡松山町附近の野)に宿られて、御父|日並知皇子《ひなみしのみこ》(草壁皇子)を追憶せられた。その時人麿の作っ
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