作者の気魄《きはく》と相融合して読者に迫って来るのであるが、如是荘大雄厳の歌詞というものは、遂に後代には跡を断った。万葉を崇拝して万葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった。その何故であるかを吾等は一たび省《かえりみ》ねばならない。後代の歌人等は、渾身《こんしん》を以て自然に参入してその写生をするだけの意力に乏しかったためで、この実質と単純化とが遂に後代の歌には見られなかったのである。第三句の、「入日さし」と中止法にしたところに、小休止があり、不即不離に第四句に続いているところに歌柄の大きさを感ぜしめる。結句の推量も、赤い夕雲の光景から月明を直覚した、素朴で人間的直接性を有《も》っている。(願望とする説は、心が稍《やや》間接となり、技巧的となる。)
「清明」を真淵に従ってアキラケクと訓んだが、これには諸訓があって未だ一定していない。旧訓スミアカクコソで、此は随分長く行われた。然るに真淵は考でアキラケクコソと訓み、「今本、清明の字を追て、すみあかくと訓しは、万葉をよむ事を得ざるものぞ、紀にも、清白心をあきらけきこゝろと訓し也」と云った。古義では、「アキラケクといふは古言にあらず」として、キヨクテリコソと訓み、明は照の誤写だろうとした。なおその他の訓を記せば次のごとくである。スミアカリコソ(京大本)。サヤケシトコソ(春満)。サヤケクモコソ(秋成)。マサヤケクコソ(古泉千樫)。サヤニテリコソ(佐佐木信綱)。キヨクアカリコソ(武田祐吉・佐佐木信綱)。マサヤケミコソ(品田太吉)。サヤケカリコソ(三矢重松・斎藤茂吉・森本治吉)。キヨラケクコソ(松岡静雄・折口信夫)。マサヤカニコソ(沢瀉久孝)等の諸訓がある。けれども、今のところ皆真淵訓には及び難い感がして居るので、自分も真淵訓に従った。真淵のアキラケクコソの訓は、古事記伝・略解・燈・檜嬬手・攷證・美夫君志・註疏《ちゅうそ》・新考・講義・新講等皆それに従っている。ただ、燈・美夫君志等は意味を違えて取った。
さて、結句の「清明己曾」をアキラケクコソと訓んだが、これに異論を唱える人は、万葉時代には月光の形容にキヨシ、サヤケシが用いられ、アカシ、アキラカ、アキラケシの類は絶対に使わぬというのである。成程万葉集の用例を見れば大体そうである。けれども「絶対に」使わぬなどとは云《い》われない。「日月波《ヒツキハ》、安可之等伊倍騰《アカシトイヘド》、安我多米波《アガタメハ》、照哉多麻波奴《テリヤタマハヌ》」(巻五・八九二)という憶良の歌は、明瞭に日月の光の形容にアカシを使っているし、「月読明少夜者更下乍《ツクヨミノアカリスクナキヨハフケニツツ》」(巻七・一〇七五)でも月光の形容にアカリを使っているのである。平安朝になってからは、「秋の夜の月の光しあかければ[#「秋の夜の月の光しあかければ」に白丸傍点]くらぶの山もこえぬべらなり」(古今・秋上)、「桂川月のあかきに[#「月のあかきに」に白丸傍点]ぞ渡る」(士佐日記)等をはじめ用例は多い。併し万葉時代と平安朝時代との言語の移行は暫時的・流動的なものだから、突如として変化するものでないことは、この実例を以ても証明することが出来たのである。約《つづ》めていえば[#「めていえば」に白丸傍点]、万葉時代に月光の形容にアカシを用いた[#「万葉時代に月光の形容にアカシを用いた」に白丸傍点]。
次に、「安我己許呂安可志能宇良爾《アガココロアカシノウラニ》」(巻十五・三六二七)、「吾情清隅之池之《アガココロキヨスミノイケノ》」(巻十三・三二八九)、「加久佐波奴安加吉許己呂乎《カクサハヌアカキココロヲ》」(巻二十 四四六五)、「汝心之清明《ミマシガココロノアカキコトハ》」、「我心清明故《アガココロアカキユヱニ》」(古事記・上巻)、「有[#(リ)][#二]清心《キヨキココロ》[#一]」(書紀神代巻)、「浄伎明心乎持弖《キヨキアカキココロヲモチテ》」(続紀・巻十)等の例を見れば、心あかし、心きよし、あかき心、きよき心は、共通して用いられたことが分かるし、なお、「敷島のやまとの国に安伎良気伎《アキラケキ》名に負ふとものを心つとめよ」(巻二十・四四六六)、「つるぎ大刀いよよ研ぐべし古へゆ佐夜気久於比弖《サヤケクオヒテ》来にしその名ぞ」(同・四四六七)の二首は、大伴家持の連作で、二つとも「名」を咏《よ》んでいるのだが、アキラケキとサヤケキとの流用を証明しているのである。そして、「春日山押して照らせる此月は妹が庭にも清有家里《サヤケカリケリ》」(巻七・一〇七四)は、月光にサヤケシを用いた例であるから、以上を綜合《そうごう》して観《み》るに、アキラケシ、サヤケシ、アカシ、キヨシ、などの形容詞は互に共通して用いられ、互に流用せられたことが分かる。新撰字鏡《しんせんじきょう》に、明。阿加之《アカシ》、佐也加爾在《サヤカニアリ》、佐也介之《サヤケシ》、明介志《アキラケシ》(阿支良介之《アキラケシ》)等とあり、類聚名義抄《るいじゅうみょうぎしょう》に、明[#(可在月)] アキラカナリ、ヒカル等とあるのを見ても、サヤケシ、アキラケシの流用を認め得るのである。結論[#「結論」に白丸傍点]、万葉時代に月光の形容にアキラケシと使ったと認めて差支ない[#「万葉時代に月光の形容にアキラケシと使ったと認めて差支ない」に白丸傍点]。
次に、結句の「己曾」であるが、これも万葉集では、結びにコソと使って、コソアラメと云った例は絶対に無いという反対説があるのだが、平安朝になると、形容詞からコソにつづけてアラメを省略した例は、「心美しきこそ」、「いと苦しくこそ」、「いとほしうこそ」、「片腹いたくこそ」等をはじめ用例が多いから、それがもっと時代が溯《さかのぼ》っても、日本語として、絶対に使わなかったとは謂えぬのである。特に感動の強い時、形式の制約ある時などにこの用法が行われたと解釈すべきである。なお、安伎良気伎《アキラケキ》、明久《アキラケク》、左夜気伎《サヤケキ》、左夜気久《サヤケク》は謂《いわ》ゆる乙類の仮名で、形容詞として活用しているのである。結論[#「結論」に白丸傍点]、アキラケク[#「アキラケク」に白丸傍点]・コソという用法は[#「コソという用法は」に白丸傍点]、アキラケク[#「アキラケク」に白丸傍点]・コソ[#「コソ」に白丸傍点]・アラメという用法に等しいと解釈して差支ない[#「アラメという用法に等しいと解釈して差支ない」に白丸傍点]。(本書は簡約を目的としたから大体の論にとどめた。別論がある。)
以上で、大体解釈が終ったが、この歌には異った解釈即ち、今は曇っているが、今夜は月明になって欲しいものだと解釈する説(燈・古義・美夫君志等)、或は、第三句までは現実だが、下の句は願望で、月明であって欲しいという説(選釈・新解等)があるのである。而して、「今夜の月さやかにあれかしと希望《ネガヒ》給ふなり」(古義)というのは、キヨクテリコソと訓んで、連用言から続いたコソの終助詞即ち、希望のコソとしたから自然この解釈となったのである。結句を推量とするか、希望とするか、鑑賞者はこの二つの説を受納《うけい》れて、相比較しつつ味うことも亦《また》可能である。そしていずれが歌として優るかを判断すべきである。
○
[#ここから5字下げ]
三輪山《みわやま》をしかも隠《かく》すか雲《くも》だにも情《こころ》あらなむ隠《かく》さふべしや 〔巻一・一八〕 額田王
[#ここで字下げ終わり]
この歌は作者未定である。併し、「額田王下[#二]近江[#一]時作歌、井戸王即和歌」という題詞があるので、額田王作として解することにする。「味酒《うまざけ》三輪の山、青丹《あをに》よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の隈《くま》い積《つも》るまでに、委《つばら》にも見つつ行かむを、しばしばも見放《みさ》けむ山を、心なく雲の、隠《かく》さふべしや」という長歌の反歌である。「しかも」は、そのように、そんなにの意。
一首の意は、三輪山をばもっと見たいのだが、雲が隠してしまった。そんなにも隠すのか、縦《たと》い雲でも情《なさけ》があってくれよ。こんなに隠すという法がないではないか、というのである。
「あらなむ」は将然言《しょうぜんげん》につく願望のナムであるが、山田博士は原文の「南畝」をナモと訓み、「情《こころ》アラナモ」とした。これは古形で同じ意味になるが、類聚古集に「南武」とあるので、暫《しばら》く「情アラナム」に従って置いた。その方が、結句の響に調和するとおもったからである。結句の「隠さふべしや」の「や」は強い反語で、「隠すべきであるか、決して隠すべきでは無い」ということになる。長歌の結末にもある句だが、それを短歌の結句にも繰返して居り、情感がこの結句に集注しているのである。この作者が抒情詩人として優れている点がこの一句にもあらわれており、天然の現象に、恰《あたか》も生きた人間にむかって物言うごとき態度に出て、毫《ごう》も厭味《いやみ》を感じないのは、直接であからさまで、擬人などという意図を余り意識しないからである。これを試《こころみ》に、在原業平《ありわらのなりひら》の、「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端《は》逃げて入れずもあらなむ」(古今・雑上)などと比較するに及んで、更にその特色が瞭然《りょうぜん》として来るのである。
カクサフはカクスをハ行四段に活用せしめたもので、時間的経過をあらわすこと、チル、チラフと同じい。「奥つ藻を隠さふ[#「隠さふ」に白丸傍点]なみの五百重浪」(巻十一・二四三七)、「隠さはぬ[#「隠さはぬ」に白丸傍点]あかき心を、皇方《すめらべ》に極めつくして」(巻二十・四四六五)の例がある。なおベシヤの例は、「大和恋ひいの寝らえぬに情《こころ》なくこの渚《す》の埼に鶴《たづ》鳴くべしや」(巻一・七一)、「出でて行かむ時しはあらむを故《ことさ》らに妻恋しつつ立ちて行くべしや」(巻四・五八五)、「海《うみ》つ路《ぢ》の和《な》ぎなむ時も渡らなむかく立つ浪に船出すべしや」(巻九・一七八一)、「たらちねの母に障《さは》らばいたづらに汝《いまし》も吾も事成るべしや」(巻十一・二五一七)等である。
○
[#ここから5字下げ]
あかねさす紫野《むらさきぬ》行《ゆ》き標野《しめぬ》行《ゆ》き野守《ぬもり》は見《み》ずや君《きみ》が袖《そで》振《ふ》る 〔巻一・二〇〕 額田王
[#ここで字下げ終わり]
天智天皇が近江の蒲生《がもう》野に遊猟(薬猟)したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子《おおあまのみこ》)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。額田王ははじめ大海人皇子に婚《みあ》い十市皇女《とおちのひめみこ》を生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。この歌は、そういう関係にある時のものである。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は染色の原料として紫草《むらさき》を栽培している野。「標野」は御料地として濫《みだ》りに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。「野守」はその御料地の守部《もりべ》即ち番人である。
一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安心でございます、というのである。
この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよ/\とをかしげなるをいふ」(攷證)。「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからに
前へ
次へ
全54ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング