と」に白丸傍点]両方とも見れど飽きないと解く説もある。娘は遊行女婦《うかれめ》であったろうから、美しかったものであろう。初句の、「あられうつ」は、下の「あられ」に懸けた枕詞で、皇子の造語と看做《みな》していい。一首は、よい気持になられての即興であろうが、不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、寧ろ勁健《けいけん》とも謂《い》うべき歌調である。これは日本語そのものがこういう高級なものであったと解釈することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。「見れど飽かぬかも」の句は万葉に用例がなかなか多い。「若狭《わかさ》なる三方の海の浜|清《きよ》みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(巻七・一一七七)、「百伝ふ八十《やそ》の島廻《しまみ》を榜《こ》ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも」(巻九・一七一一)、「白露を玉になしたる九月《ながつき》のありあけの月夜《つくよ》見れど飽かぬかも」(巻十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。これも写生によって配合すれば現代に活かすことが出来る。
 この歌の近くに、清江娘子《すみのえのおとめ》という者が長皇子に進《たてまつ》った、「草枕旅行く君と知らま
前へ 次へ
全531ページ中79ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング