楫《まかぢ》榜《こ》ぎ出て見つつ来し御津の松原浪越しに見ゆ」(巻七・一一八五)があるから、大きい松原のあったことが分かる。
「いざ子ども」は、部下や年少の者等に対して親しんでいう言葉で、既に古事記応神巻に、「いざ児ども野蒜《ぬびる》つみに蒜《ひる》つみに」とあるし、万葉の、「いざ子ども大和へ早く白菅の真野《まぬ》の榛原《はりはら》手折りて行かむ」(巻三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行している。「白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競《きほ》ひて萩の遊びせむ」(巻十・二一七三)もまたそうである。「いざ児ども香椎《かしひ》の潟《かた》に白妙の袖さへぬれて朝菜|採《つ》みてむ」(巻六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れている。つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。
この歌は、環境が唐の国であるから、自然にその気持も一首に反映し、そういう点で規模の大きい歌だと謂うべきである。下の句の歌調は稍|弛《たる》んで弱いのが欠点で、これは他のところでも一言触れて置いたごとく、憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。一首とし
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