てはもう一歩緊密な度合の声調を要求しているのである。後年、天平八年の遣新羅国使等の作ったものの中に、「ぬばたまの夜明《よあか》しも船は榜《こ》ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(巻十五・三七二一)、「大伴の御津の泊《とまり》に船|泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ」(同・三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。なお、大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌に、「ひさかたの天の露霜置きにけり宅《いへ》なる人も待ち恋ひぬらむ」(巻四・六五一)というのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。斯くの如く憶良の歌は当時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢学者であったのみならず、歌の方でもその学者であったからだとおもうが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した声調となったためとも解釈することが出来る。即ち憶良のこの歌の如きは、細かい顫動《せんどう》が足りない、而してたるんでいるところのあるものである。
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葦《あし》べ行く鴨の羽《は》がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 〔巻一・六四〕 志貴
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