て来て床までも沾れた趣である。そこで結句が導かれるわけで、つまりは、「身に副へ我妹」が一首の主眼となるのである。上の句などは大体の意味を心中に浮べて居れば好いので、小説風に種々解釈する必要はなかろうとおもう。民謡的で、労働に携わりながらうたうことも出来る歌である。
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潮《しほ》満《み》てば水沫《みなわ》に浮《うか》ぶ細砂《まなご》にも吾《われ》は生《い》けるか恋《こ》ひは死《し》なずて 〔巻十一・二七三四〕 作者不詳
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海の潮が満ちて来ると、水《みず》の沫《あわ》に浮んでいる細《こま》かい砂の如くに、恋死《こいじに》もせずに果敢《はか》なくも生きているのか、というので、物に寄せた歌だから細砂のことなどを持って来たものだろうとおもうが、この点はひどく私の心をひいている。近代の象徴詩などというと雖《いえども》、かくの如くに自然に行かぬものが多い。「細砂《まなご》にも」をば、細砂《まなご》にも自分の命を托して果敢無《はかな》くも生きていると解するともっと近代的になる。真淵は「み沫《ナワ》の如く浮ぶまさごといひて、我
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