阿胡根の浦はその海岸である。珠《たま》は美しい貝又は小石。中には真珠も含んで居る。「紀のくにの浜に寄るとふ、鰒珠《あはびだま》ひりはむといひて」(巻十三・三三一八)は真珠である。
一首の意は、わたくしの希《ねが》っていた野島の海浜の景色はもう見せていただきました。けれど、底の深い阿胡根浦の珠はいまだ拾いませぬ、というので、うちに此処《ここ》深海の真珠が欲しいものでございますという意も含まっている。
「野島は見せつ」は自分が人に見せたように聞こえるが、此処は見せて頂いたの意で、散文なら、「君が吾に野島をば見せつ」という具合になる。この歌も若い女性の口吻《こうふん》で、純真澄み透るほどな快いひびきを持っている。そして一首は常識的な平板に陥らず、末世人が舌不足と難ずる如き渋みと厚みとがあって、軽薄ならざるところに古調の尊さが存じている。これがあえて此種の韻文のみでなく、普通の談話にもこういう尊い香気があったものであろうか。この歌の稍主観的な語は、「わが欲りし」と、「底ふかき」とであって、知らず識《し》らずあい対しているのだが、それが毫も目立っていない。
高市黒人《たけちのくろひと》の歌に
前へ
次へ
全531ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング