奠器|円[#レ]隣《メグラス》でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイツカシガモト》を参考とした。そして真淵説を、「紀[#(ノ)]国の山を超て何処《イヅク》に行とすべけむや、無用説《イタヅラゴト》といふべし」と評したが、併《しか》しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田|久老《ひさおい》が信濃漫録《しなのまんろく》で云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処か弛《たる》んでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子《おおあまのみこ》(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。

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吾背子《わがせこ》は仮廬《かりほ》作《つく》らす草《
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