くない歌であるが、不思議にも身に沁みる歌である。どういう場合に人麿がこの采女の死に逢ったのか、或は依頼されて作ったものか、そういうことを種々問題にし得る歌だが、人麿は此時、「あまかぞふ大津《おほつ》の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔《くや》しき」(巻二・二一九)という歌をも作っている。これは、生前縁があって一たび会ったことがあるが、その時にはただ何気なく過した。それが今となっては残念である、というので、これで見ると人麿は依頼されて作ったのでなく、采女は美女で名高かった者のようでもあり、人麿は自ら感激して作っていることが分かる。
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妻《つま》もあらば採《つ》みてたげまし佐美《さみ》の山野《やまぬ》の上《へ》の宇波疑《うはぎ》過《す》ぎにけらずや 〔巻二・二二一〕 柿本人麿
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人麿が讃岐《さぬき》狭岑《さみね》島で溺死者を見て詠んだ長歌の反歌である。今仲多度郡に属し砂弥《しゃみ》島と云っている。坂出《さかいで》町から近い。
一首の意は、若し妻が一しょなら、野のほとりの兎芽子《うはぎ》(よめ菜)を摘んで食べさせ
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