伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう。そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである。他の三首も皆佳作で棄てがたい。
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君が行日《ゆきけ》長《なが》くなりぬ山|尋《たづ》ね迎へか行かむ待ちにか待たむ (巻二・八五)
斯くばかり恋ひつつあらずは高山《たかやま》の磐根《いはね》し枕《ま》きて死なましものを (同・八六)
在りつつも君をば待たむうち靡《なび》く吾が黒髪に霜の置くまでに (同・八七)
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八五の歌は、憶良の類聚歌林に斯く載ったが、古事記には軽太子《かるのひつぎのみこ》が伊豫の湯に流された時、軽の大郎女《おおいらつめ》(衣通《そとおり》王)の歌ったもので「君が行日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」となって居り、第三句は枕詞に使っていて、この方が調べが古い。八六の「恋ひつつあらずは」は、「恋ひつつあらず」に、詠歎の「は」の添わったもので、「恋ひつつあらずして」といって、それに満足せずに先きの希求をこめた云い方である。それだから、散文に直せば、従来の解釈のように、「……あらんよりは」というのに帰着する。
○
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妹《いも》が家《いへ》も継《つ》ぎて見ましを大和《やまと》なる大島《おほしま》の嶺《ね》に家《いへ》もあらましを 〔巻二・九一〕 天智天皇
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天智天皇が鏡王女《かがみのおおきみ》に賜わった御製歌である。鏡王女は鏡王の女、額田王の御姉で、後に藤原|鎌足《かまたり》の嫡妻《ちゃくさい》となられた方とおもわれるが、この御製歌はそれ以前のものであろうか、それとも鎌足薨去(天智八年)の後、王女が大和に帰っていたのに贈りたもうた歌であろうか。そして、「大和なる」とことわっているから、天皇は近江に居給うたのであろう。「大島の嶺」は所在地不明だが、鏡王女の居る処の近くで相当に名高かった山だろうと想像することが出来る。(後紀大同三年、平群《へぐり》朝臣の歌にあるオホシマあたりだろうという説がある。さすれば現在の生駒郡平群村あたりであろう。)
一首の意は、あなたの家をも絶えずつづけて見たいものだ。大和のあの大島の嶺にあなたの家があるとよいのだが、というぐらいの意であろう。
「見ましを」と「あらましを」と類音で調子を取って居り、同じ事を繰返して居るのである。そこで、天皇の御住いが大島の嶺にあればよいというのではあるまい。若しそうだと、歌は平凡になる。或は通俗になる。ここは同じことを繰返しているので、古調の単純素朴があらわれて来て、優秀な歌となるのである。前の三山の御歌も傑作であったが、この御製になると、もっと自然で、こだわりないうちに、無限の情緒を伝えている。声調は天皇一流の大きく強いもので、これは御気魄《おんきはく》の反映にほかならないのである。「家も」の「も」は「をも」の意だから、無論王女を見たいが、せめて「家をも」というので、強めて詠歎をこもらせたとすべきであろう。
この御製は恋愛か或は広義の往来存問か。語気からいえば恋愛だが、天皇との関係は審《つまびら》かでない。また天武天皇の十二年に、王女の病|篤《あつ》かった時天武天皇御自ら臨幸あった程であるから、その以前からも重んぜられていたことが分かる。そこでこの歌は恋愛歌でなくて安否を問いたもうた御製だという説(山田博士)がある。鎌足歿後の御製ならば或はそうであろう。併し事実はそうでも、感情を主として味うと広義の恋愛情調になる。
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秋山《あきやま》の樹《こ》の下《した》がくり逝《ゆ》く水《みづ》の吾《われ》こそ益《ま》さめ御思《みおもひ》よりは 〔巻二・九二〕 鏡王女
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右の御製に鏡王女の和《こた》え奉った歌である。
一首は、秋山の木の下を隠れて流れゆく水のように、あらわには見えませぬが、わたくしの君をお慕い申あげるところの方がもっと多いのでございます。わたくしをおもってくださる君の御心よりも、というのである。
「益さめ」の「益す」は水の増す如く、思う心の増すという意がある。第三句までは序詞で、この程度の序詞は万葉には珍らしくないが、やはり誤魔化《ごまか》さない写生がある。それから、「われこそ益《ま》さめ御思《みおもひ》よりは」の句は、情緒こまやかで、且つおのずから女性の口吻《こうふん》が出ているところに注意せねばならない。特に、結句を、「御思よりは」と止めたのに無限の味いがあり、甘美に迫って来る。これもこの歌だけについて見れば恋愛情調であるが、何処か遜《へりくだ》ってつつましく云っているところに、和え歌として此歌の価値があるのであろう。試みに同じ作者が藤
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