ある歌である。事象としては「天の時雨の流らふ」だけで、上の句は主観で、それに枕詞なども入っているから、内容としては極く単純なものだが、この単純化がやがて古歌の好いところで、一首の綜合がそのために渾然《こんぜん》とするのである。雨の降るのをナガラフと云っているのなども、他にも用例があるが、響きとしても実に好い響きである。

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秋《あき》さらば今《いま》も見《み》るごと妻《つま》ごひに鹿《か》鳴《な》かむ山《やま》ぞ高野原《たかぬはら》の上《うへ》 〔巻一・八四〕 長皇子
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 長皇子《ながのみこ》(天武天皇第四皇子)が志貴皇子《しきのみこ》(天智天皇第四皇子)と佐紀《さき》宮に於て宴せられた時の御歌である。御二人は従兄弟《いとこ》の関係になっている。佐紀宮は現在の生駒郡|平城《へいじょう》村、都跡《みあと》村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであろう。志貴皇子の宮は高円《たかまと》にあった。高野原は佐紀宮の近くの高地であっただろう。
 一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るような景色の、高野原一帯に、妻を慕って鹿が鳴くことだろう、というので、なお、そうしたら、また一段の風趣となるから、二たび来られよという意もこもっている。
 この歌は、「秋さらば」というのだから現在は未だ秋でないことが分かる。「鹿鳴かむ山ぞ」と将来のことを云っているのでもそれが分かる。其処に「今も見るごと」という視覚上の句が入って来ているので、種々の解釈が出来たのだが、この、「今も見るごと」という句を直ぐ「妻恋ひに」、「鹿鳴かむ山」に続けずに寧ろ、「山ぞ」、「高野原の上」の方に関係せしめて解釈せしめる方がいい。即ち、現在見渡している高野原一帯の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添えてそのうえ鹿の鳴く声が聞こえるという意味になる。「今も見るごと」は「現在ある状態の佳き景色の此の高野原に」というようになり、単純な視覚よりももっと広い意味になるから、そこで視覚と聴覚との矛盾を避けることが出来るのであって、他の諸学者の種々の解釈は皆不自然のようである。
 この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が濃《こま》やかに動いているにも拘《かかわ》らず、そういう主観の言葉というものが無い。それが、「鳴かむ」といい、「山ぞ」で代表せしめられている観があるのも、また重厚な「高野原の上」という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している。また「今も見るごと」の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入句があるために、却って歌調を常識的にしていない。家持が「思ふどち斯くし遊ばむ、今も見るごと」(巻十七・三九九一)と歌っているのは恐らく此御歌の影響であろう。
 この歌の詞書は、「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあり、左注、「右一首長皇子」で、「御歌」とは無い。これも、中皇命の御歌(巻一・三)の題詞を理解するのに参考となるだろう。目次に、「長皇子御歌」と「御」のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであろう。
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巻第二

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秋《あき》の田《た》の穂《ほ》のへに霧《き》らふ朝霞《あさがすみ》いづへの方《かた》に我《わ》が恋《こひ》やまむ 〔巻二・八八〕 磐姫皇后
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 仁徳天皇の磐姫《いわのひめ》皇后が、天皇を慕うて作りませる歌というのが、万葉巻第二の巻頭に四首載っている。此歌はその四番目である。四首はどういう時の御作か、仁徳天皇の後妃|八田《やた》皇女との三角関係が伝えられているから、感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう。
 一首は、秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう、それが叶《かな》わずに苦しんでおるのでございます、というのであろう。
「霧らふ朝霞」は、朝かかっている秋霧のことだが、当時は、霞といっている。キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない。第三句までは序詞だが、具体的に云っているので、象徴的として受取ることが出来る。「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので、万葉にも、「大船のたゆたふ海に碇《いかり》おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八)、「人の見て言《こと》とがめせぬ夢《いめ》にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある。
 この歌は、磐姫皇后の御歌とすると、もっと古調なるべきであるが、恋歌としては、読人不知の民謡歌に近いところがある。併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言
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