る解釈であろうが、差し当ってはそういう我儘をも許容し得るのである。
 さて、そうして置いて、萩の花を以て衣を薫染せしめることに定めてしまえば、此の歌の自然で且つ透明とも謂うべき快い声調に接することが出来、一首の中に「にほふ」、「にほはせ」があっても、邪魔を感ぜずに受納《うけい》れることも出来るのである。次に近時、「乱」字を四段の自動詞に活用せしめた例が万葉に無いとして「入り乱れ」と訓んだ説(沢瀉氏)があるが、既に「みだりに」という副詞がある以上、四段の自動詞として認容していいとおもったのである。且つ、「いりみだり」の方が響としてはよいのである。
 次に、この歌は引馬野にいて詠んだものだろうと思うのに、京に残っていて供奉の人を送った作とする説(武田氏)がある。即ち、武田博士は、「作者はこの御幸には留守をしてゐたので、御供に行く人に与へた作である。多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準備時代の作であらう。御幸先の秋の景色を想像してゐる。よい作である。作者がお供をして詠んだとなす説はいけない」(総釈)と云うが、これは陰暦十月十日以後に萩が無いということを前提とした想像説である。そして、真淵《まぶち》の如きも、「又思ふに、幸の時は、近き国の民をめし課《オフス》る事紀にも見ゆ、然れば前《さき》だちて八九月の比《ころ》より遠江へもいたれる官人此野を過る時よみしも知がたし」(考)という想像説を既に作っているのである。共に、同じく想像説ならば、真淵の想像説の方が、歌を味ううえでは適切である。この歌はどうしても属目の感じで、想像の歌ではなかろうと思うからである。私《ひそ》かにおもうに、此歌はやはり行幸に供奉して三河の現地で詠んだ歌であろう。そして少くも其年は萩がいまだ咲いていたのであろう。気温の事は現在を以て当時の事を軽々に論断出来ないので、即ち僻案抄に、「なべては十月には花も過葉もかれにつゝ(く?)萩の、此引馬野には花も残り葉もうるはしくてにほふが故に、かくよめりと見るとも難有《なんある》べからず。草木は気運により、例にたがひ、土地により、遅速有こと常のことなり」とあり、考にも、「此幸は十月なれど遠江はよに暖かにて十月に此花にほふとしも多かり」とあるとおりであろう。私は、昭和十年十一月すえに伊香保温泉で木萩の咲いて居るのを見た。其の時伊香保の山には既に雪が降っていた。また大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はそう寒くなかったのかも知れないのである。
 また、「古にありけむ人のもとめつつ衣に摺りけむ真野の榛原」(巻七・一一六六)、「白菅の真野の榛原心ゆもおもはぬ吾し衣《ころも》に摺《す》りつ」(同・一三五四)、「住吉の岸野の榛に染《にほ》ふれど染《にほ》はぬ我やにほひて居らむ」(巻十六・三八〇一)、「思ふ子が衣摺らむに匂ひこせ島の榛原秋立たずとも」(巻十・一九六五)等の、衣摺るは、萩花の摺染《すりぞめ》ならば直ぐに出来るが、ハンの実を煎じて黒染にするのならば、さう簡単には出来ない。もっとも、攷證では、「この榛摺は木の皮をもてすれるなるべし」とあるが、これでも技術的で、この歌にふさわしくない。そこでこの二首の「榛」はハギの花であって、ハンの実でないとおもうのである。なお、「引き攀《よ》ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入《こき》れつ染《し》まば染《し》むとも」(巻八・一六四四)、「藤浪の花なつかしみ、引よぢて袖に扱入《こき》れつ、染《し》まば染《し》むとも」(巻十九・四一九二)等も、薫染の趣で、必ずしも摺染めにすることではない。つまり「衣にほはせ」の気持である。なお、榛はハギかハンかという問題で、「いざ子ども大和へはやく白菅の真野の榛原手折りてゆかむ」(巻三・二八〇)の中の、「手折りてゆかむ」はハギには適当だが、ハンには不適当である。その次の歌、「白菅の真野の榛原ゆくさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」(同・二八一)もやはりハギの気持である。以上を綜合《そうごう》して、「引馬野ににほふ榛原」も萩の花で、現地にのぞんでの歌と結論したのであった。以上は結果から見れば皆新しい説を排して旧《ふる》い説に従ったこととなる。

           ○

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いづくにか船泊《ふなはて》すらむ安礼《あれ》の埼《さき》こぎ回《た》み行《ゆ》きし棚無《たなな》し小舟《をぶね》 〔巻一・五八〕 高市黒人
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 これは高市黒人《たけちのくろひと》の作である。黒人の伝は審《つまびらか》でないが、持統文武両朝に仕えたから、大体柿本人麿と同時代である。「船泊《ふなはて》」は此処では名詞にして使っている。「安礼の埼」は参河《みかわ》国の埼であろうが現在の何処《
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