女[#「采女」に白丸傍点](巻八)の如く両方に書いている。
 一首は、明日香に来て見れば、既に都も遠くに遷《うつ》り、都であるなら美しい采女等の袖をも飜《ひるがえ》す明日香風も、今は空しく吹いている、というぐらいに取ればいい。
「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、泊瀬《はつせ》風、佐保《さほ》風、伊香保《いかほ》風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。今は京址となって寂《さび》れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然にこうなったものであろう。采女の事などを主にするから甘《あま》くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは楽《らく》に解釈して好い。
 初句は旧訓タヲヤメノ。拾穂抄タハレメノ。僻案抄ミヤヒメノ。考タワヤメノ。古義ヲトメノ等の訓がある。古鈔本中|元暦《げんりゃく》校本に朱書で或ウネメノとあるに従って訓んだが、なおオホヤメノ(神)タオヤメノ(文)の訓もあるから、旧訓或は考の訓によって味うことも出来る。つまり、「采女《ウネメ》は官女の称なるを義を以てタヲヤメに借りたるなり」(美夫君志)という説を全然否定しないのである。いずれにしても初句の四音ウネメノは稍不安であるから、どうしてもウネメと訓まねばならぬなら、或はウネメラノとラを入れてはどうか知らん。

           ○

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引馬野《ひくまぬ》ににほふ榛原《はりはら》いり乱《みだ》り衣《ころも》にほはせ旅《たび》のしるしに 〔巻一・五七〕 長奥麿
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 大宝二年(文武)に太上天皇《おおきすめらみこと》(持統)が参河《みかわ》に行幸せられたとき、長忌寸奥麿《ながのいみきおきまろ》(伝不詳)の詠んだ歌である。引馬野は遠江|敷智《ふち》郡(今浜名郡)浜松附近の野で、三方原《みかたがはら》の南寄に曳馬《ひくま》村があるから、其辺だろうと解釈して来たが、近時三河|宝飯《ほい》郡|御津《みと》町附近だろうという説(今泉忠男氏、久松潜一氏)が有力となった。「榛原《はりはら》」は萩原《はぎはら》だと解せられている。
 一首の意は、引馬野に咲きにおうて居る榛原(萩原)のなかに入って逍遙しつつ、此処まで旅し来った記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、というのであろう。
 右の如くに解して、「草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける芽子《はぎ》かも」(巻八・一五三二)の歌の如く、衣に薫染せしめる事としたのであるが、続日本紀《しょくにほんぎ》に拠《よ》るに行幸は十月十日(陽暦十一月八日)から十一月二十五日(陽暦十二月二十二日)にかけてであるから、大方の萩の花は散ってしまっている。ここで、「榛原」は萩でなしに、榛《はん》の木原で、その実を煎《せん》じて黒染(黄染)にする、その事を「衣にほはせ」というのだとする説が起って、目下その説が有力のようであるが、榛の実の黒染のことだとすると、「入りみだり衣にほはせ」という句にふさわしくない。そこで若し榛原は萩原で、其頃萩の花が既に過ぎてしまったとすると、萩の花でなくて萩の黄葉《もみじ》であるのかも知れない。(土屋文明氏も、萩の花ならそれでもよいが、榛の黄葉、乃至は雑木の黄葉であるかも知れぬと云っている。)萩の黄葉は極めて鮮かに美しいものだから、その美しい黄葉の中に入り浸って衣を薫染せしめる気持だとも解釈し得るのである。つまり実際に摺染《すりぞめ》せずに薫染するような気持と解するのである。また、榛は新撰字鏡《しんせんじきょう》に、叢生曰[#レ]榛とあるから、灌木の藪をいうことで、それならばやはり黄葉《もみじ》の心持である。いずれにしても、榛《はん》の木ならば、「にほふはりはら」という気持ではない。この「にほふ」につき、必ずしも花でなくともいいという説は既に荷田春満《かだのあずままろ》が云っている。「にほふといふこと、〔葉〕花にかぎりていふにあらず、色をいふ詞なれば、花過ても匂ふ萩原といふべし」(僻案抄)。
 そして榛の実の黒染説は、続日本紀の十月十一月という記事があるために可能なので、この記事さへ顧慮しないならば、萩の花として素直に鑑賞の出来る歌なのである。また続日本紀の記載も絶対的だともいえないことがあるかも知れない。そういうことは少し我儘《わがまま》過ぎ
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