夜の床でも可哀いい妻だが、昼日中でもやはり可哀《かあ》いくて忘れられない、というので、その言い方が如何にも素朴|直截《ちょくせつ》で愛誦するに堪《た》うべきものである。このいい方は巻十四の東歌に見るような民謡風なものだから、或はそういう既にあったものを書き記して通告したとも取れるが、若しこの千文《ちぶみ》という者が作ったとすると、東歌なども東国の人々によって作られたことが分かり、興味も亦《また》深いわけである。「旅行《たびゆき》に行くと知らずて母父《あもしし》に言申《ことまを》さずて今ぞ悔《くや》しけ」(巻二十・四三七六)の結句が、「悔しき」の訛で、「かなしき」を「かなしけ」と云ったのと同じである。

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あられ降《ふ》り鹿島《かしま》の神《かみ》を祈《いの》りつつ皇御軍《すめらみくさ》に吾《われ》は来《き》にしを 〔巻二十・四三七〇〕 防人
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 前と同じ作者である。鹿島の神は、現在茨城県鹿島郡鹿島町に鎮座《ちんざ》する官幣大社鹿島神宮で、祭神は武甕槌命《たけみかづちのみこと》にまします。千葉県香取郡香取町に鎮座する官幣大社香取神宮(祭神|経津主命《ふつぬしのみこと》即ち伊波比主命《いわいぬしのみこと》)と共に、軍神として古代から崇敬《すうけい》至ったものであった。防人《さきもり》等は九州防衛のため出発するのであるが、出発に際しまた道すがらその武運の長久を祈願したのであった。土屋文明氏によれば、常陸の国府は今の石岡町にあったから、そこから鹿島郡軽野を過ぎ、下総国海上郡に出たようだから、途中鹿島の神に参拝することが出来たのである。
 一首の意は、武神にまします鹿島の神に、武運をば御いのりしながら、天皇の御軍勢のなかに私は加わりまいりましたのでござりまする、というのである。
 結句の「を」は感歎の助詞で、それを以て感奮の心を籠《こ》めて結句としたものである。併し若《も》しこの「来にしを」を、「来たものを」、「来たのに」というように余言を籠もらせたと解釈するなら、「皇御軍のために我は来しますらをなるを、夜昼ともに悲しと思ひし妻を留めて置つれば心弱く顧せらるゝ事を云ひ残して含めるなるべし」(代匠記)か「鹿島の神に祈願《こひいのり》て官軍《すめらみいくさ》に出《いで》て来しものをいかでいみじき功勲《いさを》を立てずして帰り来るべしや」(古義)かのいずれにかになる。「あられ降り」を「鹿島」の枕詞にしたのは、霰《あられ》が降って喧《かしま》しいから、同音でつづけた。カマカマシ、カシカマシ、カシマシとなったのだろうと云われて居る。こういう技巧も既に一部に行われていたものか、或はこの作者の発明か。

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ひなぐもり碓日《うすひ》の坂《さか》を越《こ》えしだに妹《いも》が恋《こひ》しく忘《わす》らえぬかも 〔巻二十・四四〇七〕 防人
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 他田部子磐前《おさたべのこいわさき》という者の作。「ひなぐもり」は、日の曇り薄日《うすび》だから、「うすひ」の枕詞とした。一首は、まだようやく碓氷峠《うすいとうげ》を越えたばかりなのに、もうこんなに妻が恋しくて忘れられぬ、というのであろう。当時は上野からは碓氷峠を越して信濃《しなの》に入り、それから美濃《みの》路へ出たのであった。この歌は歌調が読んでいていかにも好く、哀韻さえこもっているので此辺《このへん》で選ぶとすれば選に入るべきものであろう。「だに」という助詞は多くは名詞につくが、必ずしもそうでなく、「棚霧《たなぎ》らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代《しろ》に添へてだに見む」(巻八・一六四二)、「池のべの小槻《をつき》が下の細竹《しぬ》な苅りそね其をだに君が形見に見つつ偲ばむ」(巻七・一二七六)等の例がある。

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防人《さきもり》に行くは誰《た》が夫《せ》と問《と》ふ人《ひと》を見《み》るが羨《とも》しさ物思《ものも》ひもせず 〔巻二十・四四二五〕 防人の妻
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 昔年《さきつとし》の防人《さきもり》の歌という中にあるから、天平勝宝七歳よりもずっと前のものだということが分かる。またこれは防人の妻の作ったもののようである。一首は、見おくりの人だちの立《たち》こんだ中に交って、防人に行くのは誰ですか、どなたの御亭主ですか、などと、何の心配もなく、たずねたりする人を見ると羨《うらやま》しいのです、というので、そういう質問をしたのは女であったことをも推測するに難くはない。まことに複雑な心持をすらすらと云って除《の》けて、これだけのそつの無いものを作りあげたのは、そういう悲歎と羨望《せんぼう》の心とが張りつめ
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