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あしひきの山河《やまがは》の瀬《せ》の響《な》るなべに弓月《ゆつき》が岳《たけ》に雲《くも》立《た》ち渡《わた》る 〔巻七・一〇八八〕 柿本人麿歌集
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 同じく柿本人麿歌集にある。一首の意は、近くの痛足《あなし》川に水嵩《みずかさ》が増して瀬の音が高く聞こえている。すると、向うの巻向《まきむく》の由槻《ゆつき》が岳《たけ》に雲が湧《わ》いて盛に動いている、というので、二つの天然現象を「なべに」で結んでいる。「なべに」は、と共に、に連《つ》れて、などの意で、「雁がねの声聞くなべに[#「なべに」に白丸傍点]明日《あす》よりは春日《かすが》の山はもみぢ始《そ》めなむ」(巻十・二一九五)、「もみぢ葉を散らす時雨《しぐれ》の零《ふ》るなべに[#「なべに」に白丸傍点]夜《よ》さへぞ寒き一人し寝《ぬ》れば」(巻十・二二三七)等の例がある。
 この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、そういう荒々しい強い相として現出しているのを、その儘さながらに表現したのが、写生の極致ともいうべき優《すぐ》れた歌を成就《じょうじゅ》したのである。なお、技術上から分析すると、上の句で、「の」音を続けて、連続的・流動的に云いくだして来て、下の句で「ユツキガタケニ」と屈折せしめ、結句を四三調で止めて居る。ことに「ワタル」という音で止めて居るが、そういうところにいろいろ留意しつつ味うと、作歌|稽古《けいこ》上にも有益を覚えるのである。次に、此歌は河の瀬の鳴る音と、山に雲の動いている現象とを詠んだものだが、或は風もあり雨も降っていたかも知れぬ。併し其風雨の事は字面には無いから、これは奥に隠して置いて味う方が好いようである。そういう事をいろいろ詮議《せんぎ》すると却って一首の気勢を損ずることがあるし、この歌の季《き》についても亦同様であって、夏なら夏と極《き》めてしまわぬ方が好いようである。この歌も人麿歌集出だが恐らく人麿自身の作であろう。巻九(一七〇〇)に、「秋風に山吹の瀬の響《とよ》むなべ天雲《あまぐも》翔《がけ》る雁に逢へるかも」とあって、やはり人麿歌集にある歌だから、これも人麿自身の作で、上の句の同一手法もそのためだと解釈することが出来る。

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大海《おほうみ》に島《しま》もあらなくに海原《うなばら》のたゆたふ浪《なみ》に立《た》てる白雲《しらくも》 〔巻七・一〇八九〕 作者不詳
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 作者不明だが、「伊勢に駕《が》に従へる作」という左注がある。代匠記に、「持統天皇朱鳥六年ノ御供ナリ」と云ったが、或はそうかも知れない。一首の意は、大海《だいかい》のうえには島一つ見えない、そして漂動《ひょうどう》している波には、白雲が立っている、というので、「たゆたふ」は、進行せずに一処に猶予している気持だから、海上の波を形容するには適当であり、第一その音調が無類に適当している。それから、「あらなくに」は、「無いのに」という意で、其処に感慨をこもらせているのだが、そう口訳すると、理に堕《お》ちて邪魔するところがあるから、今の口語ならば、「島も見えず」、「島も無くして」ぐらいでいいとおもう。つまり、島一つ無いというのが珍らしく、其処に感動が籠《こも》っているので、「なくに」が、「立てる白雲」に直接続くのではない。若し関聯せしめるとせば、普段《ふだん》大和で山岳にばかり雲の立つのを見ていたのだから、海上のこの異様の光景に接して、その儘、「大海に島もあらなくに」と云ったと解することも出来る。調子に流動的に大きいところがあって、藤原朝の人麿の歌などに感ずると同じような感じを覚える。ウナバラノ・タユタフ・ナミニあたりに、明かにその特色が見えている。普通|従駕《じゅうが》の人でなおこの調《しらべ》をなす人がいたというのは、まことに尊敬すべきことである。
「見まく欲《ほ》り吾がする君もあらなくに奈何《なにし》か来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)、「磯の上に生ふる馬酔木《あしび》を手折《たを》らめど見すべき君がありといはなくに」(同・一六六)、「かくしてやなほや老いなむみ雪ふる大あらき野の小竹《しぬ》にあらなくに」(巻七・一三四九)等、例が多い。皆、この「あらなくに」のところに感慨がこもっている

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御室《みもろ》斎《つ》く三輪山《みわやま》見《み》れば隠口《こもりく》の初瀬《はつせ》の檜原《ひはら》おもほゆるかも 〔巻七・一〇九五〕 作者不詳
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 山を詠んだ、作者不詳の歌である。「御室《みもろ》斎《つ》く」は、御室《みむろ》に斎《いつ》くの意で、神を祀《まつ》ってあること
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