「言挙せず妹に依り寝む」(巻十二・二九一八)等の例にもある如く、彼此《かれこれ》と言葉に出していわないことである。
一首の意は、縦《たと》い千万の軍勢なりとも、彼此と言葉に云わずに、前触《まえぶれ》などせずに、直ちに討取って来る武将だとおもう、君は、というので、威勢をつけて行を盛《さかん》にしたものである。虫麿の此処の長歌も技法に屈折のあるものだが、虫麿歌集の長歌にもなかなか佳作があって、作者の力量をおもわしめるが、この短歌一首も、調べを強く緊《し》めて、武将を送るにふさわしい声調を出している。彼此いっても、この万葉調がもはや吾等には出来ない。
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丈夫《ますらを》の行くとふ道ぞ凡《おほ》ろかに念《おも》ひて行《ゆ》くな丈夫《ますらを》の伴《とも》 〔巻六・九七四〕 聖武天皇
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聖武天皇御製。天平四年八月、節度使の制を東海・東山・山陰・西海の四道に布《し》いた。聖武天皇が其等の節度使等が任に赴《おもむ》く時に、酒を賜わり、この御製を作りたもうた。その長歌の反歌である。
一首は、今出で立つ汝等節度使の任は、まさに大丈夫の行くべき行旅である。ゆめおろそかに思うな、大丈夫の汝等よ、と宣うので、功をおさめて早く帰れという大御心が含まれている。「行くとふ」の「とふ」は「といふ」で、天地のことわりとして人のいう意である。「おほろかに」は、おおよそに、軽々しく、平凡にぐらいの意で、「百種《ももくさ》の言《こと》ぞ隠《こも》れるおほろかにすな」(巻八・一四五六)、「おほろかに吾し思はば斯くばかり難き御門《みかど》を退《まか》り出《で》めやも」(巻十一・二五六八)等の例がある。御製は、調べ大きく高く、御慈愛に満ちて、闊達《かったつ》至極のものと拝誦し奉る。「大君の辺にこそ死なめ」の語のおのずからにして口を漏るるは、国民の自然のこえだということを念《おも》わねばならぬ。短歌はかくの如くであるが、長歌は、「食国《をすくに》の遠《とほ》の御朝廷《みかど》に、汝等《いましら》が斯《か》く罷《まか》りなば、平らけく吾は遊ばむ、手抱《たうだ》きて我は御在《いま》さむ、天皇《すめら》朕《わ》がうづの御手《みて》もち、掻撫《かきな》でぞ労《ね》ぎたまふ、うち撫でぞ労《ね》ぎたまふ、還《かへ》り来む日|相《あい》飲《の》まむ酒《き》ぞ、この豊御酒《とよみき》は」というのであり、「平らけく吾は遊ばむ[#「平らけく吾は遊ばむ」に白丸傍点]、手抱きて我はいまさむ[#「手抱きて我はいまさむ」に白丸傍点]」とは、慈愛|遍照《へんしょう》する現神《あきつかみ》のみ声である。
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士《をのこ》やも空《むな》しかるべき万代《よろづよ》に語《かた》りつぐべき名《な》は立《た》てずして 〔巻六・九七八〕 山上憶良
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山上憶良の痾《やまい》に沈《しず》める時の歌一首で、巻五の、沈痾自哀文と思[#二]子等[#一]歌は、天平五年六月の作であるから、此短歌一首もその時作ったものであろう。また此歌の左注に、憶良が病んだ時、藤原朝臣八束《ふじわらのあそみやつか》(藤原|真楯《またて》)が、河辺朝臣|東人《あずまびと》を使として病を問わしめた、その時の作だとある。
一首の意は、大丈夫たるものは、万代の後まで語り伝えられるような功名もせず、空しく此世を終るべきであろうか、というので、名も遂げずに此儘《このまま》死するのは残念だという意である。憶良は渡海して支那文化に直接接したから、此思想も彼には身に即《つ》いていて切実なものであったに相違ない。そこで此一首の調べも、重厚で、浮々していないし、また憶良の歌にしては連続流動的声調を持っているが、ただ後代の吾等にとっては稍大づかみに響くというだけである。結句原文、「名者不立之而」は旧訓ナハ・タタズシテであったのを、古義でナハ・タテズシテと訓んだ。旧訓の方が古調のようである。
巻十九に、大伴家持が此歌に追和した長歌と短歌が載っている。長歌の方に、「あしひきの八峯《やつを》踏み越え、さしまくる情《こころ》障《さや》らず、後代《のちのよ》の語りつぐべく、名を立つべしも」(四一六四)とあり、短歌の方に、「丈夫《ますらを》は名をし立つべし後の代に聞き継ぐ人も語りつぐがね」(四一六五)とある。家持は憶良の此一首をも尊敬していたことが分かる。
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振仰《ふりさ》けて若月《みかづき》見《み》れば一目《ひとめ》見《み》し人《ひと》の眉引《まよびき》おもほゆるかも 〔巻六・九九四〕 大伴家持
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大伴家持の作った、初月《みかづき》の歌である。大
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