榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきが如《ごと》(跡なきごとし)」(巻三・三五一)という歌が有名であり、当時にあって仏教的観相のものとして新しかったに相違なく、また作者も出家した後だから、そういう深い感慨を意識して漏らしたものに相違なかろうが、こういう思想的な歌は、縦《たと》い力量があっても皆成功するとは限らぬものである。この現世無常の歌に較べると、筑紫の綿の方が一段上である。
この綿は、真綿《まわた》(絹綿)という説と棉《わた》(木綿《もめん》・もめん綿)という説とあるが、これは真綿の方であろう。真綿説を唱えるのは、当時木綿は未だ筑紫でも栽培せられていなかったし、題詞の「緜」という文字は唐でも真綿の事であり、また、続日本紀《しょくにほんぎ》に「神護景雲三年三月乙未、始毎年、運[#二]太宰府綿二十万|屯《モチ》[#一]、以輸[#二]京庫[#一]」とあるので、九州が綿の産地であったことが分かるが、その綿が真綿だというのは、三代実録、元慶八年の条に、「五月庚申朔、太宰府年貢綿十万屯、其内二万屯、以[#レ]絹相転進[#レ]之」とあるによって明かである。以[#レ]絹相転進[#レ]之は、在庫の絹を以て代らした意である。また支那でも印度から木綿の入ったのは宋の末だというし、我国では延暦《えんりゃく》十八年に崑崙《こんろん》人(印度人)が三河に漂着したが、其舟に木綿の種があったのを栽培したのが初だといわれている。また、木綿説を唱える人は、神護景雲三年の続日本紀の記事は木綿で、恐らく支那との貿易によったもので、支那との貿易はそれ以前から行われていただろうというのである。それに対して山田博士云、「遣唐使の派遣が大命を奉じて死生を賭《と》して数年を費《ついや》して往復するに、綿のみにても毎年二十万屯づつを輸入せりとすべきか」(講義)と云った。
一首の意は、〔白縫〕(枕詞)筑紫の真綿《まわた》は名産とはきいていたが、今見るとなるほど上品だ。未だ着ないうちから暖かそうだ、というので、「筑紫の綿は」とことわったのは、筑紫は綿の名産地で、作者の眼にも珍らしかったからに相違ない。何十万屯(六両を一屯とす)という真白な真綿を見て、「暖けく見ゆ」というのは極めて自然でもあり、歌としては珍らしく且つなかなか佳い歌である。
そういう珍重と親愛とがあるために、おのずから覚官的語気が伴うと見え、女体と関聯する寓意《ぐうい》があろうという説もある。例えば、「満誓、女など見られてたはぶれに詠れたるにて、かの綿を積かさねなどしたるが、暖げに見ゆるを女によそへられたるなるべし」(攷證)というたぐいである。この寓意説は駄目だが、それだけこの歌が肉体的なものを持っている証拠ともなり、却ってこの歌を浅薄な観念歌にしてしまわなかった由縁とも考え得るのである。即ち作歌動機は寓目即事でも、出来上った歌はもっと暗指的な象徴的なものになっている。結句、旧訓アタタカニミユであったのを、宣長はアタタケクミユと訓んだ。なおこの歌につき、契沖は、「綿ヲ多ク積置ケルヲ見テ綿ノ功用ヲホムルナリ」(代匠記精撰本)「綿の見るより暖げなりといふに心を得ば、慈悲ある人には慈悲の相あらはれ、※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢《けうまん》の人には※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢の相《さう》あらはれ、よろづにかゝるべきことはりなれば、いましめとなりぬべき哥《うた》にや」(代匠記初稿本)と云ったが、真淵は、「さまでの意はあるべからず、打見たるままに心得べし」(考)と云った。
○
[#ここから5字下げ]
憶良等《おくらら》は今《いま》は罷《まか》らむ子《こ》哭《な》くらむその彼《か》の母《はは》も吾《わ》を待《ま》つらむぞ 〔巻三・三三七〕 山上憶良
[#ここで字下げ終わり]
山上憶良臣《やまのうえのおくらのおみ》宴《うたげ》を罷《まか》る歌一首という題がある。憶良は、大宝元年遣唐使に従い少録として渡海、慶雲元年帰朝、霊亀二年|伯耆《ほうき》守、神亀三年頃筑前守、天平五年の沈痾自哀《ちんあじあい》文(巻五・八九七)には年七十四と書いてある。この歌は多分筑前守時代の作で、そして、この前後に、大伴旅人、沙弥満誓、防人司佑大伴四綱《さきもりのつかさのすけおおとものよつな》の歌等があるから、太宰府に於ける宴会の時の歌であろう。
一首の意味は、この憶良はもう退出しよう。うちには子どもも泣いていようし、その彼等の母(即ち憶良の妻)も待っていようぞ、というのである。「其彼母毛」は、ソノカノハハモと訓み、「その彼《か》の(子供の)母も」という意味になる。
憶良は万葉集の大家であるが、飛鳥《あすか》朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんで来た眼には、急に変ったものに
前へ
次へ
全133ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング