おきつ》清見寺あたりだといわれている。この歌の前に、「廬原《いほはら》の清見が埼の三保の浦の寛《ゆた》けき見つつもの思ひもなし」(巻三・二九六)というのがある。三保は今は清水市だが古えは廬原郡であった。「清見が埼の」も、「三保の浦の」も共に「寛けき」に続く句法である。「田児浦」は今は富士郡だが、古《いにし》えは廬原郡にもかかった範囲の広かったもので、東海道名所図絵に、「都《すべ》て清見興津より、ひがし浮島原迄の海浜の惣号《そうがう》なるべし」とある。
さて、此一首は、昼見れば飽くことのない田児浦のよい景色をば、君命によって赴任する途上だから夜見た、というので、昼見る景色はまだまだ佳いのだという意が含まっているのである。そして、なぜ夜見たとことわったかというに、山田(孝雄)博士の考証がある(講義)。駿河国府(静岡)を立って、息津《おきつ》、蒲原《かんばら》と来るのだが、その蒲原まで来るあいだに田児浦がある。静岡から息津まで九里、息津から蒲原まで四里、それを一日の行程とすると、蒲原に着くまえに夜になったのであろう、というのである。
この歌は右の如く、事実によって詠んだものであるが、この歌を読むといつも不思議な或るものを感じて今日まで来たのであった。それは、「夜見つるかも」という句にあって、この「夜」というのに、特有の感じがあると思うのである。作者は、「夜の田児浦」をばただ事実によってそういっただけだが、それでもその夜の感動が後代の私等に伝わるのかも知れないのである。
補記。近時|沢瀉《おもだか》久孝氏は田児浦を考証し、「薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]《さった》峠の東麓より、由比、蒲原を経て吹上浜に至る弓状をなす入海を上代の田児浦とする」とした。
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田児《たご》の浦ゆうち出でて見れば真白《ましろ》にぞ不尽《ふじ》の高嶺《たかね》に雪《ゆき》は降《ふ》りける 〔巻三・三一八〕 山部赤人
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山部宿禰赤人《やまべのすくねあかひと》が不尽山《ふじのやま》を詠んだ長歌の反歌である。「田児の浦」は、古《いにし》えは富士・廬原の二郡に亙った海岸をひろく云っていたことは前言のとおりである。「田児の浦ゆ」の「ゆ」は、「より」という意味で、動いてゆく詞語に続く場合が多いから、此処は「打ち出でて」につづく。「家ゆ出でて三年がほどに」、「痛足《あなし》の川ゆ行く水の」、「野坂の浦ゆ船出して」、「山の際《ま》ゆ出雲《いづも》の児ら」等の用例がある。また「ゆ」は見渡すという行為にも関聯しているから、「見れば」にも続く。「わが寝たる衣の上ゆ朝月夜《あさづくよ》さやかに見れば」、「海人《あま》の釣舟浪の上ゆ見ゆ」、「舟瀬《ふなせ》ゆ見ゆる淡路島」等の例がある。前に出た、「御井《みゐ》の上より鳴きわたりゆく」の「より」のところでも言及したが、言語は流動的なものだから、大体の約束による用例に拠って極めればよく、それも幾何学の証明か何ぞのように堅苦しくない方がいい。つまり此処で赤人はなぜ「ゆ」を使ったかというに、作者の行為・位置を示そうとしたのと、「に」とすれば、「真白にぞ」の「に」に邪魔をするという微妙な点もあったのであろう。
赤人の此処の長歌も簡潔で旨《うま》く、その次の無名氏(高橋|連《むらじ》虫麿か)の長歌よりも旨い。また此反歌は古来人口に膾炙《かいしゃ》し、叙景歌の絶唱とせられたものだが、まことにその通りで赤人作中の傑作である。赤人のものは、総じて健康体の如くに、清潔なところがあって、だらりとした弛緩《しかん》がない。ゆえに、規模が大きく緊密な声調にせねばならぬような対象の場合に、他の歌人の企て及ばぬ成功をするのである。この一首中にあって最も注意すべき二つの句、即ち、第三句で、「真白にぞ」と大きく云って、結句で、「雪は降りける」と連体形で止めたのは、柿本人麿の、「青駒の足掻《あがき》を速み雲居にぞ[#「にぞ」に白丸傍点]妹があたりを過ぎて来にける[#「来にける」に白丸傍点]」(巻二・一三六)という歌と形態上甚だ似ているにも拘《かか》わらず、人麿の歌の方が強く流動的で、赤人の歌の方は寧ろ浄勁《じょうけい》とでもいうべきものを成就《じょうじゅ》している。古義で、「真白くぞ」と訓み、新古今で、「田子の浦に打出て見れば白妙の富士の高根に雪は降りつつ」として載せたのは、種々比較して味うのに便利である。また、無名氏の反歌、「不尽《ふじ》の嶺《ね》に降り置ける雪は六月《みなづき》の十五日《もち》に消ぬればその夜降りけり」(巻三・三二〇)も佳い歌だから、此処に置いて味っていい。(附記。山田博士の講義に、「田児浦の内の或地より打ち出で見ればといふことにて足る筈なり。かくてその
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