孝徳天皇皇子)が、斉明天皇の四年十一月、蘇我赤兄《そがのあかえ》に欺《あざむ》かれ、天皇に紀伊の牟婁《むろ》の温泉(今の湯崎温泉)行幸をすすめ奉り、その留守に乗じて不軌《ふき》を企てたが、事露見して十一月五日却って赤兄のために捉《とら》えられ、九日紀の温湯《ゆ》の行宮《あんぐう》に送られて其処で皇太子中大兄の訊問《じんもん》があった。斉明紀四年十一月の条に、「於[#レ]是皇太子、親間[#二]有間皇子[#一]曰、何故謀反、答曰、天与[#二]赤兄[#一]知、吾全不[#レ]解」の記事がある。この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。皇子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で絞《こう》に処せられた。御年十九。万葉集の詞書には、「有間皇子自ら傷《かな》しみて松が枝を結べる歌二首」とあるのは、以上のような御事情だからであった。
 一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。
 無事であることが出来たらというのは、皇太子の訊問に対して言い開きが出来たらというので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。「天と赤兄と知る」という御一語は悲痛であった。けれども此歌はもっと哀切である。こういう万一の場合にのぞんでも、ただの主観の語を吐出《はきだ》すというようなことをせず、御自分をその儘《まま》素直にいいあらわされて、そして結句に、「またかへり見む」という感慨の語を据えてある。これはおのずからの写生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと謂《い》っていいほどである。作者はただ有りの儘に写生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云われる。例えば第三句で、「引き結び」と云って置いて、「まさきくあらば」と続けているが、そのあいだに幾分の休止あること、「豊旗雲に入日さし」といって、「こよひの月夜」と続け、そのあいだに幾分の休止あるのと似ているごときである。こういう事が自然に実行せられているために、歌調が、後世の歌のような常識的平俗に堕《おち》ることが無いのである。

           ○

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家《いへ》にあれば笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を草枕《くさまくら》旅《たび》にしあれば椎《しひ》の葉《は》に盛《も》る 〔巻二・一四二〕 有間皇子
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 有間皇子の第二の歌である。「笥」というのは和名鈔に盛食器也とあって飯笥《いいけ》のことである。そしてその頃高貴の方の食器は銀器であっただろうと考証している(山田博士)。
 一首は、家(御殿)におれば、笥(銀器)に盛る飯をば、こうして旅を来ると椎の葉に盛る、というのである。笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。
 前の御歌は、「真幸《まさき》くあらばまたかへりみむ」と強い感慨を漏らされたが、痛切複雑な御心境を、かく単純にあらわされたのに驚いたのであるが、此歌になると殆ど感慨的な語がないのみでなく、詠歎的な助詞も助動詞も無いのである。併し底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか。吾等の常識では「草枕旅にしあれば」などと、普通|※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》の不自由を歌っているような内容でありながら、そういうものと違って感ぜねばならぬものを此歌は持っているのはどうしてか。これは史実を顧慮するからというのみではなく、史実を念頭から去っても同じことである。これは皇子が、生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を直《ただち》にあらわしているのが、やがて普通の※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅とは違ったこととなったのである。写生の妙諦《みょうてい》はそこにあるので、この結論は大体間違の無いつもりである。
 中大兄皇子の、「香具《かぐ》山と耳成《みみなし》山と会ひしとき立ちて見に来し印南《いなみ》国原」(巻一・一四)という歌にも、この客観的な荘厳があったが、あれは伝説を歌ったので、「嬬《つま》を争ふらしき」という感慨を潜めていると云っても対象が対象だから此歌とは違うのである。然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、斯《かか》る客観的荘厳を成就《じょうじゅ》せられた。
 皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、「磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(巻二・一四三)、「磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ」(同・一四四、長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》)、「つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知
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