を統《す》べる将軍のことで、続紀に、和銅二年に蝦夷《えみし》を討った将軍は、巨勢麿《こせのまろ》、佐伯石湯《さへきのいわゆ》だから、御製の将軍もこの二人だろうといわれている。「楯たつ」は、楯は手楯でなくもっと大きく堅固なもので、それを立てならべること、即ち軍陣の調練をすることとなるのである。
どうしてこういうことを仰せられたか。これは軍の調練の音をお聞きになって、御心配になられたのであった。考に、「さて此御時みちのく越後の蝦夷《エミシ》らが叛《ソム》きぬれば、うての使を遣さる、その御軍《みいくさ》の手ならしを京にてあるに、鼓吹のこゑ鞆の音など(弓弦のともにあたりて鳴音也)かしかましきを聞し召て、御位の初めに事有《ことある》をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。此|大御哥《おほみうた》にさる事までは聞えねど、次の御こたへ哥と合せてしるき也」とある。
御答歌というのは、御名部皇女《みなべのひめみこ》で、皇女は天皇の御姉にあたらせられる。「吾が大王《おほきみ》ものな思ほし皇神《すめかみ》の嗣《つ》ぎて賜へる吾無けなくに」(巻一・七七)という御答歌で、陛下よどうぞ御心配あそばすな、わたくしも皇祖神の命により、いつでも御名代になれますものでございますから、というので、「吾」は皇女御自身をさす。御製歌といい御答歌といい、まことに緊張した境界で、恋愛歌などとは違った大きなところを感得しうるのである。個人を超えた集団、国家的の緊張した心の世界である。御製歌のすぐれておいでになるのは申すもかしこいが、御姉君にあらせられる皇女が、御妹君にあらせらるる天皇に、かくの如き御歌を奉られたというのは、後代の吾等拝誦してまさに感涙を流さねばならぬほどのものである。御妹君におむかい、「吾が大王ものな思ほし」といわれるのは、御妹君は一天万乗の現神《あきつかみ》の天皇にましますからである。
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飛《と》ぶ鳥《とり》の明日香《あすか》の里《さと》を置《お》きて去《い》なば君《きみ》が辺《あたり》は見《み》えずかもあらむ 〔巻一・七八〕 作者不詳
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元明天皇、和銅三年春二月、藤原宮から寧楽《なら》宮に御遷りになった時、御輿《みこし》を長屋原《ながやのはら》(山辺郡長屋)にとどめ、藤原京の方を望みたもうた。その時の
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